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なぜ本多家は“姫路”に移った? 千姫が担った「徳川政権を支える」役割

2024年01月19日 公開

歴史街道編集部

西の丸百間廊下写真:西の丸百間廊下と化粧櫓

徳川家康を祖父にもち、数えにして僅か7歳で豊臣秀頼のもとに輿入れした千姫。大坂の陣後、彼女は江戸にもどるが、一人の武将との出会いを機に、人生を再び強く歩み始める。桑名市、姫路市、常総市、文京区、岡山市といったゆかりの地から、そのドラマチックな生涯をたどってみよう。今回は、姫路市へと向かった。

 

世界遺産の城でどう暮らしたのか?

JR・姫路駅北口を出ると、まっすぐのびた道路の先に、威風堂々とした白鷺のような城が浮かぶ。法隆寺などとともに、日本ではじめて世界遺産となった姫路城だ。

元和3年(1617)、義父の本多忠政が桑名から移封となったのに伴って、千姫は夫の忠刻(ただとき)とともに姫路へと入った。もともとの本多家15万石に、千姫の化粧料として10万石をあてがわれ、城の西の丸を整備、千姫のための化粧櫓やそこへ続く300メートルもの廊下、すなわち百間廊下なども設けられた。

本多家が桑名から姫路に移った理由はなんだったのか。姫路市文化財課の宇那木隆司さんに尋ねてみた。

「関ケ原合戦後、豊臣政権と徳川政権が併存しますが、姫路城主となった池田輝政は、その情勢を意識してか、東側の防備に重点を置いて城を整備しました。

それが大坂の陣で豊臣家が滅びると、畿内より西に初めて徳川系の大名が配置されます。今度は西にむかって、徳川方が睨みをきかせなければならない。その重大な役目には、家康以来の忠臣である本多家がうってつけだったのです。

なおかつ嫡男・忠刻の妻は、2代将軍・秀忠の娘である千姫。この存在は強力な『防御』となりました。実際、西側に張り巡らされた西の丸は、西国大名にその威容を見せつけるかのようです」

戦国時代が終わってもなお、千姫は徳川政権を安定させるための大きな役割を担っていたのだ。

姫路城北西近郊にある男山(おとこやま)に、千姫は天満宮を建立し、菅原道真像や自身の羽子板などを奉納している。男山には八幡宮と水尾神社も鎮座し、現在は水尾神社総代会が天満宮も世話をしている。

「西の丸の百間廊下から天満宮が見えます。今は木が茂って見えにくいですが、あのあたりですよ」と、宇那木さんが指すほうに目をやると、なるほど、社の屋根が見える。こちらのほうが少し高い位置にあるようだ。

「信心深い千姫が、神様を見下ろすことはないと思いますが、天満宮は城から遥拝できるように東向きになっています。こうして自分の勧請した神社を眺め、家族と過ごした姫路の暮らしに、千姫の平穏への希求が感じられます」

 

男山千姫天満宮と本多家廟所 

男山千姫天満宮写真:男山千姫天満宮

その神社は現在、男山千姫天満宮の名で親しまれている。氏子総代の方に案内をしていただきながら、約120段という階段をのぼって参拝に向かう。

豊臣秀頼の亡霊に苦しむ千姫が、元和9年(1623)に社殿を建て、天神像を祀ったという。千姫が奉納した羽子板は見ることはできないが、姫路城百間廊下にレプリカがあるので、そちらでその美しさを堪能してほしい。徳川の葵と五三の桐紋が入った宮中正月と左義長を描いたものだ。

姫路は、家族揃って暮らした、千姫の幸福が満たされた地だった。

しかし、しばらくして長男・幸千代(こうちよ)や夫である忠刻の死に直面してしまう。傷心の千姫は一人娘の勝姫を連れて、江戸の徳川家へと戻ることになるが、忠刻父子の墓は、姫路に残されている。

姫路城から北西へ県道67号線をいくと、書写山(しょしゃざん)がある。ふもとからロープウエイに乗り、頂上へ。そこから山道を20分ほど歩くと、天台宗書寫山圓教寺(えんぎょうじ)に出る。

目を見張る大伽藍で、「西の比叡山」と称されるそうだ。そして摩尼殿(まにでん)を正面にして左側にあるのが本多家廟所だ。通常非公開であるが、特別に見せていただいた。

全部で7基あるうち、左奥の2基が、幸千代と忠刻の墓である。

書写山自体はうっそうとした木々に囲まれているが、ロープウエイで上がるときは、播州平野が一望できた。夫の忠刻はついに家督を継ぐことはできなかったが、家族を築いた地を眺めながら眠っているのだろう。

本多家廟所
写真:圓教寺にある本多家廟所

 

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