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巨大城郭に大天守…結城秀康ゆかりの地・福井市にみる「高度な防衛構想」

2023年06月14日 公開
2023年10月04日 更新

歴史街道編集部

福井城
福井城(写真提供:福井市)

これほどの巨大城郭だったのか――。結城秀康が築いた福井城は、今も堀と石垣が残されているが、城の遺構を歩くと、かつての威容に驚かずにはいられなかった。ゆかりの神社や庭園もあわせて、歴史街道編集部が訪ねてきた。

 

福井藩士になった気分で城へ

舎人門遺構
舎人門遺構

「これは、近い!」。福井を訪ねる前に下準備をしていると、思わず驚いた。最寄駅から離れている城は珍しくないが、福井城は駅から徒歩数分の至近距離にあるのだ。

すぐに城が見られる――そんな胸の高鳴りとともに福井駅に降り立ち、福井城へと向かう。その途中、道路を横切るように石が敷いてあるのを見つけた。

案内板によると、かつてこの石のラインに沿って、百間堀という幅の広い堀が存在したという。そのすぐ北側には内堀が現存するが、それとは別に大きな堀があるとは...。相当な堅城だったのだろう。

百間堀跡から北西に進むと、内堀に囲まれた石垣とともに、高い建物が見える。福井県庁だ。かつては本丸御殿が存在したが、城の本丸跡に県庁が建っているのは珍しい。

地元の方によると、通勤時間帯に職員の方々が県庁へと向かう様子は、江戸時代の登城風景を想起させてくれるという。なるほど。そう思うと、お城に向かう自分も、登城している気分になってくる。

内堀に架けられた橋を渡り、福井城へと向かう。城の周囲には桜の木が立ち並んでおり、春の福井城も見てみたいものだ――そんなことを思いつつ城に入ると、結城秀康の像がお出迎えしてくれた。

その右手にある案内板には、数種類のガイドマップが置かれている。「今昔マップ」という、江戸時代の古図のうえに現代の地図を重ね合わせたものだ。江戸時代の城郭をイメージでき、ありがたい。

その地図を見ると、江戸時代の福井城は、内堀以外にも幾重にも堀がめぐっており、巨大城郭であることがわかる。城域は約1.5キロメートル四方にも及んだという。

地図を頼りに、天守台へと向かう。ここにはかつて、4層5階、高さ約30メートルの天守が聳えていた。秀康も、この場所から、城下を眺めたことだろう。

天守台のすぐ東側には、福の井という井戸がある。福井の地名の起こりとする説もあるそうだが、三代藩主・松平忠昌が北庄から「福居」と改名し、やがて「福井」と記すようになったそうだ。

天守台から降りると、すぐそばには復元された山里口御門と御廊下橋がある。御廊下橋は屋根付きの珍しい形をしているが、それもそのはず。藩主専用のもので、本丸と三ノ丸御座所の往来に用いられたものだという。

木造の屋根の下に入ると、それだけで厳かな気持ちになってくる。歴代藩主も、本丸に入る際にここで気を引き締めたのだろうか。

橋を渡った先は、中央公園となっている。公園内には解説板が複数設置されていて、また、藩主御座所にちなんだ休憩所・ビジターセンター御座所では映像資料も鑑賞できる。

それらを見ると、江戸時代の福井城がよくわかる。現在公園となっている地には二ノ丸と三ノ丸があり、本丸から三ノ丸に藩主御座所が移されたのは、延宝3年(1675)のことだという。秀康の時代は、本丸で暮らしたのだろう。

中央公園の次は、舎人門遺構へと向かう。福井城の北方を守るために、外堀に設けられた門だ。

公園から8分ほど北東へ歩くと、復元された堀、石垣、そして古式ゆかしい趣きをたたえた舎人門が見えてくる。城下絵図によると、このあたりには、幅約16.2メートルの堀があったそうだ。この堀をこえて、門を突破しても、さらに巨大な内堀が待ち構えている...。それを思うと、福井城を攻めるのは容易でないことがわかる。

 

博物館と庭園へ

養浩館庭園
養浩館庭園(写真提供:福井市)

舎人門遺構に隣接して、福井市立郷土歴史博物館がある。旧福井藩に関する資料を多数所蔵しているとのことで、足を運んでみる。

常設展では、縄文時代から昭和までの福井の歴史が、模型や映像などを駆使して解説されている。なかでも目を引いたのが、福井城本丸の復元模型だ。天守が聳えていた時代の姿がイメージできる。

また館内には、大きな九十九橋の実物大模型がある。学芸員の中西健太さんにうかがうと、福井城下には、天然の堀といえる足羽川が流れており、その川に唯一かかっていた橋が、九十九橋だという。

しかも面白いつくりの橋で、北側は木造、南側は石造で、敵襲の際に北側の橋を破却できるようにしたもの、という説もあるそうだ。

中西さんによると、福井城は他にも、様々な防衛上の特徴があるという。たとえば、秀康は城の南東の守りを固めるべく、足羽川と合流する吉野川の東に、新たに荒川を掘削。足羽川と荒川を外堀とし、旧吉野川の川筋を堀として利用したものこそ、百間堀だという。

また城の北側にも、敵の侵入を防ぐための工夫がなされていた。それらを踏まえると、秀康は小田原城のように、城下全体を囲むような、総構えの城を築こうとしていたと推察されるそうだ。

秀康の入封時、越前は加賀の前田家と大坂の豊臣家に挟まれる位置にあったことから、そのような防衛構想が描かれたのだろう。そう思うと、秀康の果たした役割の重要性がひしひしと感じられた。

博物館のすぐ東隣には、福井藩主の別邸だった養浩館庭園がある。池や数寄屋造りの屋敷などからなる回遊式林泉庭園だ。

庭内に入ると、緑に包まれて、清々しい空気が流れている。屋敷に入って庭を眺めると、ちょっとだけ藩主になったような、贅沢な心地に浸れた。

この地が現在のような姿に整えられたのは七代藩主・松平吉品の時代(1686〜1703)で、養浩館は賢君として知られる松平春嶽の命名によるものだそうだ。

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