水攻めに失敗した三成は一転、数の利を生かし、総攻撃を開始した。猛攻に晒され、城方は西北部の皿尾口を失陥。しかしなおも奮戦し、豊臣方の攻勢を退け続けた。
そして開戦から1ケ月経たった7月6日、豊臣軍本隊に包囲されていた小田原城が開城、降伏する。すでに北条方の支城はすべて落城しており、残るは忍城のみ。もはや援軍のあてもなく、勝利の可能性は全く失われたのである。
ところが忍城はなおも開城せず、抗戦の構えを崩さなかった。これほどの戦意は一体どこから生まれたのだろうか。明確な答えを出すことはできないものの、この忍城攻めを一躍有名にした小説『のぼうの城』(和田竜著)では、成田長親の人望に焦点をあてており、非常に面白い視点だと思う。
私は、女性の存在も大きかったのではないかと考えている。行田市には、「筓堀(こうがいほり)」という伝承が残されており、筓とは髪をかきあげるためのもので、当主・氏長の妻がそれを使い、自ら堀を穿ったというのである。
この女性は名将・太田道灌の玄孫にあたり、毅然とした女性だったのではないか。さらには氏長の娘・甲斐姫が、得物をとって果敢に戦ったという伝承もある。
もちろん、これらが事実か否かはわからない。しかし彼女たちが凜乎とした態度をもって戦いに臨んだからこそ、様々な逸話が生まれたのだろう。そしてそんな彼女たちを見て、城兵は奮い立ったのかもしれない。
またこれは推測にすぎないが、領民にとって関東でも指折りの名族・成田氏を領主に仰ぐことは、誇るべきことでもあったに違いない。"農民あがりの秀吉に、屈するものか"という気概が、将兵や領民に満ちていたことも想像できる。
激闘の終わりは、7月16日に訪れた。小田原にあった当主・氏長が、秀吉の指示で忍城に開城命令を出し、成田長親はそれに従った。かくして、忍城の攻防戦は幕を下ろした。
この戦いには不明な点が多いものの、忍城が強大な敵を相手に、最後まで屈しなかったのは事実である。戦国の最終決戦を飾るにふさわしい、見事な攻防戦、守る側から見ての籠城戦であったというべきだろう。
更新:11月22日 00:05