2020年01月10日 公開
桓武天皇が崩御された翌皇紀1467年=大同2年(807年)10月、桓武天皇の第三皇子・伊予親王(天皇の異母弟)が母・藤原吉子と共に謀反の疑いをかけられ、無実を主張するが認められず、翌11月、幽閉先の川原寺(奈良県明日香村)で毒をあおいで憤死される。しかし後に次の嵯峨天皇の御世、弘仁10年、2人の無罪が認められ、本位・本号が復され、墓は山陵とされた。藤原吉子は藤原南家・藤原是公の娘で、この事件をきっかけとして武智麻呂を祖とする南家の勢力が衰退する。
皇紀1469年=大同4年(809年)4月1日、天皇は病に倒れられ、4月3日在位わずか3年余り(皇統譜では在位4年とある)で同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位され、太上天皇となられた。
こうして天皇が病に倒れられたのも早良親王や伊予親王の祟りによるものと恐れられたのである。
この年11月、旧平城京に新宮を建造され、12月、平城上皇は平城京に転居される。
翌大同5年、薬子の変が起きる。上皇の譲位が早すぎたとして、藤原薬子と兄の仲成とが平城上皇を復位させ、上皇の重祚を企てようと起こした変であった。嵯峨天皇の速やかな処置がなければ大乱に発展していた可能性が高かった。従って平城天皇の即位の前後は決して平穏ではなかった。
皇紀1484年=天長元年(824年)7月7日、淳和天皇(異母弟)の御世に五十一歳で崩御される。平城天皇の御名は、深い愛着を持っておられた平城京に由来するものであった。
更新:11月22日 00:05