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第31代・用明天皇への皇位継承と崇仏排仏抗争の激化

2019年07月26日 公開
2019年07月26日 更新

吉重丈夫

欽明天皇、用明天皇、皇位継承朕は仏・法・僧の三宝に帰依したい

蘇我稲目の外孫である用明天皇は、敏達天皇とは違って崇仏派で仏法を重んじられた。蘇我氏の流れを汲んでいること、健康に勝れなかったことなどが影響している。

一方、危機感を持った排仏派の筆頭である大連の物部守屋(物部尾輿の子)は、欽明天皇の皇子の一人・穴穂部皇子(母は小姉君)の即位を願っていた。穴穂部皇子も母は小姉君で同じ蘇我稲目の娘である。そこに蘇我系の堅塩媛の皇子・橘豊日皇子が即位されたので、このことも蘇我氏と物部氏の対立を深めた。蘇我氏と物部氏は、仏教に対する対応と皇位継承問題とで激しく対立することになる。こうした中で、蘇我氏が推す崇仏派の用明天皇が即位されたのであった。

皇紀1247年=用明2年(587年)夏4月2日、新嘗祭が行われていたが、天皇はご不例(病)が重篤となり、途中で宮に戻られた。群臣に「朕は仏・法・僧の三宝に帰依したい。卿等もよく考えて欲しい」と詔された。

物部守屋大連と中臣勝海連は「どうして国津神に背いて他国の神を敬うことがあろうか」と仏教受け入れに反対し、蘇我馬子は「詔に従ってご協力すべき」と言う。こうして皇位継承問題も絡んで、いよいよ崇仏と排仏の二派に分かれた争いが激化することになった。

そしてこの年4月9日、疱瘡のため、在位2年足らず、48歳で用明天皇が崩御される。

在位は2年足らずと短かったが、天皇は仏教に帰依され、その皇子・厩戸皇子(聖徳太子)も後に推古天皇の皇太子として活躍され、神仏習合という思想のもとに仏教を取り入れられ、その後の日本の国体に大きな影響を残された。

蘇我氏と物部氏との抗争は次の御世に持ち越される。そして用明天皇が崩御された直後に「丁未の乱」が起きる。

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