2019年07月12日 公開
2023年10月04日 更新
欽明天皇陵
(奈良県明日香村)
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1169年=継体3年(509年)、継体天皇の即位後に第四皇子として誕生された天国排開広庭命(あまくにおしはらきひろにわのみこと)である。母は仁賢天皇の皇女・手白香皇女で、雄略天皇の孫娘に当たる。継体天皇が即位されてから2年後に誕生された。
皇紀1199年=宣化4年(539年)12月5日、天国排開広庭命(欽明天皇)が31歳で即位される。
物部大連麁鹿火の亡き後、物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣とした。父帝・継体天皇擁立に尽力した大伴金村は半島問題で間もなく失脚し、代わって蘇我氏が台頭してくることになる。
皇紀1200年=欽明元年(540年)春1月15日、先帝で異母兄の宣化天皇と皇后・橘仲皇女(仁賢天皇の皇女)との間に誕生された皇女・石姫を皇后に立てられた。
その他、天皇は蘇我稲目宿禰の娘・堅塩媛と小姉君を妃とされ、多くの皇子女をもうけられた。
堅塩媛との間の皇子女からは後の用明天皇、推古天皇が即位され、小姉君の皇子からは崇峻天皇が即位しておられる。つまり、蘇我稲目は三方の天皇の外祖父となった。
秋7月14日、都を大和国磯城嶋金刺宮(奈良県桜井市)に遷された。
皇紀1212年=欽明13年(552年)冬十月、百済の聖明王が使者を遣わし、仏像や経典と共に、仏教信仰の功徳を賞賛した上表文を献上する。仏教の伝来である。
天皇はこれを受け入れるかどうか群臣に尋ねられる。蘇我稲目は「西の国は皆礼拝しています。我が国だけがこれに背くべきではない」と賛成し、物部尾輿は「我が帝は常に天地社稷の百八十神をお祀りされる、今初めて蕃神(仏)を拝むと、恐らく国津神の怒りを買いましょう」と反対する。そこで天皇はこの仏像などを蘇我稲目に授け、試しに礼拝させられる。
この時から蘇我稲目と物部尾輿とが、仏教を取り入れるか否かを巡って崇仏排仏論争を始め、これが皇位継承問題に大きく影響するようになる。
後に国に疫病が流行り、それが長く続いた。そこで物部や中臣は、仏を祀ったからだ、仏を早く投げ捨てて後の福を願うべきであると奏上し、天皇は「申すようにせよ」といわれる。役人は仏像を難波の堀江に捨て、寺には火を付け悉く焼いた。
皇紀1230年=欽明31年(570年)春3月1日、堅塩媛の父・蘇我大臣稲目宿禰が死去する。
皇紀1231年=欽明32年(571年)夏4月15日、天皇は在位32年にして、63歳で崩御される。
武烈天皇に後嗣がおられなくて皇統の危機に直面し、群臣は苦労して、第15代応神天皇の五世孫の男大迹王を越前からお連れし、皇位を繫いだという苦い経験からか、欽明天皇は皇后の石姫の他に5人の妃を入れられ、26人あまりの皇子女に恵まれた。
そしてこの中から4人の皇子女が即位されることになるが、後嗣を巡る周囲の争いも激化した。
更新:11月21日 00:05