2019年03月11日 公開
2019年03月29日 更新
皇紀155年= 懿徳(いとく)5年(前506年)、懿徳天皇の第一皇子として誕生された観松彦香殖稲命(みまつひこかえしねのみこと)で、母は懿徳天皇の皇后の天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)である。
母の天豊津媛命は安寧天皇の第一皇子・息石耳命(おきそみみのみこと)の娘で、懿徳天皇は安寧天皇の第二皇子であり息石耳命の弟であるから姪に当たる。
皇紀172年=懿徳22年(前489年)2月12日、観松彦香殖稲命(孝昭天皇)が18歳で立太子される。
皇紀184年=懿徳34年(前477年)、先帝・懿徳天皇が崩御される。
皇紀186年=孝昭元年(前475年)1月9日、先帝の懿徳天皇の崩御を受け、皇太子・観松彦香殖稲命が32歳で即位される。
他に第二皇子として武石彦奇友背命(たけいしひこくしともせのみこと)がおられたようであるが、皇位を争われた形跡はない。
但し、先帝・懿徳天皇が崩御されてから孝昭天皇即位まで1年4ヶ月経っているので若干事情があったとも思われる。
この年7月、大和国掖上池心宮(わきのかみいけこころのみや、葛城掖上宮・奈良県御所市)に都を遷された。
皇紀214年=孝昭29年(前447年)春1月3日、尾張連の祖である瀛津世襲(おきつよそ)の妹・世襲足媛(よそたらしひめ)を立てて皇后とされた。
即位後28年して尾張から豪族の娘を皇后に迎えられた。
尾張氏は神別(天孫)氏族の天忍人命(あめおしひとのみこと)を祖とする。
皇紀234年=孝昭49年(前427年)、孝昭天皇の第二皇子として日本足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしのみこと)が誕生される。
皇紀253年=孝昭68年(前408年)春1月14日、第二皇子である日本足彦国押人命が20歳で立太子される。
第一皇子の天足彦国押人命がおられたが、第二皇子の立太子に問題は起きなかったようである。
第一皇子の天足彦国押人命は和邇臣、春日氏、小野氏の祖である。
皇紀268年=孝昭83年(前393年)8月5日、在位83年、114歳(皇統譜)で崩御される。
更新:11月22日 00:05