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聖徳太子~はたして架空の人物なのか?

2018年01月01日 公開
2022年07月14日 更新

1月1日 This Day in History

聖徳太子

 

聖徳太子(厩戸皇子)が誕生

今日は何の日 敏達天皇3年1月1日

敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)、聖徳太子が生まれたといわれます。かつての1万円札や5000円札の肖像でもおなじみですが、その肖像が当人かどうかも含めて、さまざまな謎に満ちています。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子ですが、そもそも聖徳太子という名前自体、在世当時には使われていなかった呼称であり、名は厩戸豊聰耳(うまやどとよとみみ)皇子。上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれました。宮中の厩の前で生まれたという、イエス・キリストを思わせるような出生伝説があり、幼少より聡明で、10人の話を次々に聞いて、すべてに的確な返答をしたという逸話も知られます。

『日本書紀』によると、用明天皇2年(587)、仏教の受容をめぐって崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が争った時、厩戸皇子は馬子に味方して物部方を破りました。その後、推古天皇が即位すると、厩戸皇子は皇太子となり、馬子とともに、天皇を補佐します。この時、厩戸皇子が「摂政」を務めたと学校で教わったという方も多いと思いますが、最近ではこの時代、摂政という言葉はなかったという見方が定着しているようです。

四天王寺の建立、斑鳩宮の造営、冠位十二階や十七条憲法の制定、随への国書など、飛鳥時代に大きな足跡を残した厩戸皇子は、推古天皇30年(622)、病没しました(前年に死亡という説もあります)。享年49。ところがよく知られる厩戸皇子の事績について、さまざまな疑問が投げかけられています。

まず、聖徳太子の肖像としてお札にも使われた絵は、「唐本御影(とうほんみえい)」と呼ばれるものですが、冠に笏を持った姿は飛鳥時代のものではなく、衣服の様式から古くとも奈良時代以降のものとされます。そのため別人を描いた絵ではないかという説も生まれ、教科書などでも最近は「伝・聖徳太子」という説明になっています。もちろん仮によく知られる肖像画が聖徳太子ではなかったとしても、聖徳太子の存在や事績を否定する理由にはなりません。他にも聖徳太子の数々の業績は、『日本書記』編纂時に捏造されたものではないかという説も存在します。要は『日本書紀』の編纂にあたった藤原不比等が、藤原氏の立場を正当化するために蘇我氏を貶め、蘇我入鹿に滅ぼされた山背大兄王の父親である厩戸皇子を聖なる存在に持ち上げた、といった見方です。 こうした聖徳太子の事績否定論に対しては、賛否両論あるのが現実です。これらについては今後、研究の深化を待つべきでしょう。

最後に、天平期に来日した鑑真の逸話をご紹介しましょう。中国仏教の大成者で、天台宗を開創した智顗(ちぎ)という僧がいました。この智顗の師匠が南嶽(なんがく)大師慧思(えし、515~577)です。 慧思は中国仏教の創始者の一人に数えられる重要人物で、伝説が多いことでも知られました。中でも有名な伝説が、慧思は死後6度生まれ変わり、7度目に日本の皇子・聖徳太子に化身したというのです。この伝説を知っていた鑑真は、何としても慧思が転生した日本を訪れ、自分の手で正しい仏教を伝えたいと願い、苦難の末に失明してまでも来日を果たしました。つまり鑑真の時代には唐にまで、日本にはかつて国王の子で、仏教を篤く保護し、政治力もある人物がいたという情報が伝わり、慧思が転生した重要人物であると認識されていたことになります。

こうした逸話を見ても、聖徳太子に擬せられる人物が全く存在しなかったとは考えにくいと感じるのですが、はたして真実はどうであったのでしょうか。

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