歴史街道 » 本誌関連記事 » 綏靖天皇(第2代)と安寧天皇(第3代)

綏靖天皇(第2代)と安寧天皇(第3代)

2019年03月04日 公開
2019年03月29日 更新

吉重丈夫

綏靖天皇 葛城高丘宮阯碑
綏靖天皇 葛城高丘宮阯碑
 

天皇陛下の譲位と平成改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえりまます。今回は「綏靖天皇」と「安寧天皇」をお届けします。

※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。

吉重丈夫著『皇位継承事典』
 

第2代 綏靖天皇
世系7、即位52歳、在位33年、宝算84歳

神武天皇が東征して大和に入られてから後、皇紀29年=神武29年(前632年)、神武天皇の第三皇子として誕生された神渟名川耳命(かんぬなかわみみのみこと)(『古事記』では神沼河耳命)で、母は事代主神の長女で、先帝・神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)である。

神武天皇には、皇后との間に神八井耳命(かんやいみみのみこと)、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと、日子八井命)、神渟名川耳命の3人の皇子がおられた。

皇紀42年=神武42年(前619年)正月3日、末子の神渟名川耳命が14歳で立太子される。

神渟名川耳命が立太子されてから34年後の皇紀76年=神武76年(前585年)3月、先帝・神武天皇が崩御される。
 

手研耳命の反逆事件

神武東征で日向から父の神日本磐余彦尊(かんやまといわれひことみこと、神武天皇)と一緒に上って来られた異母兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、先妻の皇子とはいえ、第一皇子の立場にあられ、父帝・神武天皇が異母弟の、しかも末弟の神渟名川耳命を皇太子とされたことに不満を抱かれた。

手研耳命は先帝・神武天皇の皇后で、自身にとっては継母の媛蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇の皇后)を正妃としておられた。

ところが夫・手研耳命が異母弟の神渟名川耳命たち兄弟を亡き者にしようと謀っているので、母である媛蹈鞴五十鈴媛命は、この重大事を和歌に託して神渟名川耳命たちにお知らせになる。夫である手研耳命の策謀を皇子たちに密告されたのである。

この陰謀を知らされた神八井耳命、彦八井命、神渟名川耳命の三兄弟は、片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝市・上牧町付近か)の大室に臥せっておられた手研耳命を襲い、これを誅された。

兄の神八井耳命はこの時手足が震えて矢を射ることができず、弟の神渟名川耳命がその弓を取って手研耳命を射殺された。神八井耳命はこれを恥じて弟の神渟名川耳命に即位を願い、自らは神々の祀りを受け持たれる。

神渟名川耳命はすでに皇太子であるから当然ともいえるが、この事件で末子の神渟名川耳命が第二代天皇に即位されることが確定した。

手研耳命の皇后であり、神渟名川耳命の母である媛蹈鞴五十鈴媛命が手研耳命の反逆を密告するということで、この皇位継承に決定的役割を果たされたといえる。

兄の神八井耳命は日本最古の皇別氏族・多臣(おおのおみ)の始祖である。

多氏は後に「太氏」「大氏」「意富氏」などとも記される。また、九州の阿蘇氏、関東の千葉氏などの多くの皇別氏族の祖となられた。

なお、皇別氏族とは皇族の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族をいう。他に「神別氏族」「諸蕃」があり、「神別氏族」は天津神・国津神の子孫で、神武天皇以前の神代に分かれたとされる氏族であり、「諸蕃」は支那大陸・朝鮮半島から渡来したと称する諸氏の末裔である。秦氏・漢氏・百済氏などが「諸蕃」に分類される。

彦八井耳命(日子八井命)については『日本書紀』には記載がない。

神渟名川耳命の即位に当たっては、先帝・神武天皇の崩御後に手研耳命の反逆事件があって3年遅れたが、神武天皇の定められた皇太子・神渟名川耳命が予定通り、皇紀80年=綏靖元年(前581年)正月8日即位された。

都は大和国葛城高丘宮に置かれた。

この手研耳命弑逆事件は初代から第2代への皇位継承に当たっての、悲劇の大事件であった。

初代神武天皇から第2代綏靖天皇への皇位継承は決して平和裏での継承ではなかったのである。

『古事記』『日本書紀』は、先の大戦以後、天皇、皇族を権威づけるために朝廷が拵えた架空の物語を綴った偽書であるということになっているが、初代から2代への極めて重要な皇位継承に当たっての記述で、この悲劇が語られている。

皇紀81年=綏靖2年(前580年)春1月、事代主神の次女・五十鈴依媛(いすずよりひめ)を立てて皇后とされる。

先代・神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の妹で叔母に当たる。

皇紀104年=綏靖25年(前557年)春1月7日、皇子の磯城津彦玉手看命(しきつひこたまてみのみこと、21歳)を皇太子に立てられる。

皇紀112年=綏靖33年(前549年)夏5月10日、ご不例(病)で崩御される。

在位33年、宝算84歳であった。

次のページ
第3代・安寧天皇 世系8、即位29歳、在位38年、宝算67歳 >

歴史街道 購入

2024年12月号

歴史街道 2024年12月号

発売日:2024年11月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

神武天皇~初代天皇による日本の建国

吉重丈夫

明治天皇が自ら体現された「無私のまこと」

中西輝政(京都大学名誉教授)