2018年10月11日 公開
2018年10月23日 更新
戦争開始から7年、アレクサンドロスはペルシアを征服しました。ギリシアの悲願を遂げ、父王の遺志を果たし、これで終わりかと思いきや、王はインド進軍を発表します。ペルシア征服に飽き足らず、さらに東に向かうというのです。つまりは、このまま世界を征服すると打ち上げたわけですね。
アレクサンドロス大王の世界史的な意義というのが、これです。ペルシアを倒した。確かに壮挙ではありますが、それで終われば、単なるギリシアとペルシアの確執の歴史、つまるところローカルな歴史の域に留まります。
そうではなくて、ペルシアを倒しても満足できない、インドにも行かなければならない、世界を征服するんだと思いついたところにこそ、アレクサンドロス大王はユニヴァーサル・ヒストリーの担い手だという所以があるわけです。
なぜ世界征服を思いついたのか─結局のところ、わかりません。これという定説があるわけでもありません。
よくいわれるのはパトス、ギリシア語で「衝動」くらいの意味ですが、このパトスですね。
アレクサンドロス大王は内的な衝動に駆られて世界征服を始めたんだと。行きつくところ、そこに理由を求めるしかないといわれれば、その通りなのだと思います。
ただ衝動の中身というか、その出所も気になります。一説にはフィリッポス二世に対するコンプレックスだったといいます。フィリッポス二世は名君だ、とにかく名君だと、アレクサンドロスはずっと聞かされていたというんですね。
後世からすると、目につくのはアレクサンドロスだけですし、アレクサンドロスのほうが偉い、フィリッポス二世なんて誰なんだという感がありますが、その時代のなかに入りこんで想像しますと、なるほど、途方もなく偉大な父親に感じられたのだと思います。
時間の問題もあるでしょうね。ペルシア征服が終わっても、アレクサンドロスの即位から9年しかたっていません。前王フィリッポスの記憶は、まだ風化していない。誰よりアレクサンドロス自身が鮮明に覚えている。
遂げたペルシア征服についても、全て偉大な先王がお膳立てしたものじゃないかといわれたのかもしれません。少なくともいわれてるんじゃないか、そう思われているんじゃないかと、アレクサンドロスは疑わずにいられませんね。
年齢の問題もあります。父親と比べられて、笑われているんじゃないかとも不安になれば、なお30歳に届かない若年ですからね。さらなる功名に逸らないではいられない。フィリッポス二世がやったこと以上、いや、考えたこと以上の仕事をやらないと、俺は父親を超えたことにはならないんだと、思いつめてしまったのかもしれません。
まあ、どこにでもあるような父子の間の感情ですね。こういうミクロな感情が、世界征服というようなマクロな歴史の動きを促したのだとすれば、意外なような気もするかたわら、非常に人間らしいといいますか、それはそれで妙な説得力がありますね。
それにしても世界征服とは、なんと大きな話を思いついたものだろうと嘆息してしまいます。これについてはギリシア哲学の影響もあったかなと思います。
マケドニア隆盛の時代ですから、ポリス衰退の時代で、それまで頼りにしてきた都市国家が当てにならなくなってきた。そこでどうして生きていったらよいのか、人の処世を考えるというのが、ギリシア哲学、人生哲学なわけです。
脱ポリスを迫られて、ひとつには個人主義が唱えられました。個人としての生き方の模索ですね。もうひとつ出されたのが、つまりは両極に振れたということですが、アレクサンドロスの同時代人ディオゲネスが唱えた、世界市民主義(コスモポリタニズム)です。
世界征服というのは、この世界市民主義の影響ですね。それをアレクサンドロスが言葉として口に出したという記録はないんですが、実際の行動として大王は多分に世界市民主義的なわけです。
まずもって、ギリシア人、あるいはマケドニア人の支配を打ち立てると、そういう発想ではないんですね。戦争して、アケメネス朝は倒すし、自分に反抗する者は叩くんだけれど、そうでなければペルシア人とて特に排除するつもりはない。
征服先でもペルシア人の総督なんかは、そのまま在職させていますからね。かえって自分が「アジアの王」を名乗って、服装から何からペルシア風を心がけています。
結婚政策も、そうです。アレクサンドロスがペルシアの豪族の娘と結婚したことは前で触れました。少し後の前324年の話になりますが、王はスサというペルシアの都市で、部下のマケドニア人たちとペルシア人の有力者の娘たちを、集団結婚させるということもやっています。
一夫多妻ですから、アレクサンドロス自身も、このときペルシア王家の娘スタテイラとパリュサティスを妻にしています。ギリシア人も、マケドニア人も、ペルシア人もない。あるのは世界市民なんだという考え方の一端を、垣間みることができますよね。
いずれにせよ、アレクサンドロスは世界を征服しようとしました。ペルシアで止まらず、インドに行こうとしました。
前327年にスワート地方を平定、前326年にはインダス河を渡ります。もうそれだけで大変な難事ですね。インダス河といっても一本だけでなく、何本も支流があるわけです。
5月、侵攻した先のパンジャブ地方で、現地の王ポロスと戦いますが、そのヒュダスペスの戦いも、インダスの支流ヒュダスペス河の辺ほとりで戦われたものでした。7月には最後の支流、ヒュファシス河を渡りにかかります。しかし、折りからの豪雨で水嵩が増して、そこで足止めを食わされるんですね。
そのときでした。さすがの忠実な部下たち、将兵たちも、もう嫌だと、もう帰りたいといい出したんです。世界征服はアレクサンドロスがやりたいと思っただけなんですね。他の誰もが納得し、また共感できるような大義とか必然性とかがあったわけではないと。
ペルシアを倒したい。それはギリシア人の悲願としてあったけれど、それ以上のことは、ほとんど誰も考えていなかったんです。であれば、故郷を後に出陣して、もう7年にもなるわけですから、厭戦気分に陥るのも無理はありません。
部下たち、将兵たちと深刻な対立に陥って、さすがのアレクサンドロスも仕方ない、それでは引き返そうと決断します。ただ、繰り返せば30になったばかりの若さですから、いったん引き返すだけ、ちょっと休んだら、また来ようくらいの気持ちだったと思います。
アレクサンドロスはネアルコスという部下を残して、インド洋沿岸の探検航海を命じています。ペルシアまで戻ると、そこからアラビア半島の探検に出ることも企画しました。死後に明かされた遺言があるんですが、そのなかではアフリカのカルタゴとか、地中海の西の果てのイベリアですね、そこまで行く気でいたことが記されています。アレクサンドロスは、やっぱり世界を征服するつもりでいたんですね。
しかし、前323年6月、大王はペルシアのバビロンで熱病にかかり、そのまま死んでしまいます。32歳と11カ月、もう少しで33歳、まだそんな歳にしかなっていませんでした。
あまりに劇的な人生というか、太く短くの典型ですね。歴史の流れからすると、ほんの一瞬にしかすぎません。それでも、その一瞬に世界征服の意志、自分たちの勢力範囲を広げるんだという以上に、世界を征服してやる、世界をひとつにする、自分たちの歴史をこそ世界史にするのだという意志が、人類史上初めて明らかにされたわけです。
※本稿は、佐藤賢一著『学校では教えてくれない世界史の授業』より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月25日 00:05