2018年08月31日 公開
2022年12月07日 更新
討たれた隆信の首は、戦いを指揮した島津家久から、肥後の佐敷(熊本県葦北郡芦北町)に本営を置いていた島津家16代義久のもとに送られ、首実検の後、佐嘉へ送られた。
そして不思議、謎めいたことが起きる。この隆信の首の受け取りを、龍造寺家は拒否した。『直茂公譜』に「不運の首、この方へ申し請けても無益な事なり」と言って拒否したとある。しかもそう発言したのが、隆信の母である慶誾だったと『歴代鎮西志』はいい、「竜造寺使いを遣わし相謂うと云う、不運の頭所用なし、蓋しこれ母公慶誾の誨(おしえる)ところ也」と記すのだ。
慶誾が本当にそう言ったかどうか真相は不明で、直茂の発言との説もある。しかし直茂ならば、慶誾がこれを阻止できる立場にあった。この謎めく言葉の背後には、少なくとも暴走し討ち死にした不肖の息子への、慶誾の複雑な想いがあることは事実といえよう。
鈴木敦子著の論文「龍造寺隆信と母慶誾尼について」は、隆信が弟長信に与えた手紙(多久家文書)を分析し、慶誾が佐嘉城の隆信の所よりも、弟の長信の水ケ江城を好み、長逗留することが多かったとする。隆信は「爰元(自分)ハ見かぎられ候」「我等共ハ子の内とは不被申候」と慶誾に愛想をつかされたことを嘆く文面があり、「同子ニ而候へ共、其の方ハかうかう者ニ而候」と自分と長信は同じ母の子だが、お前の方が孝行者だと羨みもしている。隆信のために押しかけ結婚もした慶誾だったが、晩年は隆信の性格ゆえに悩むことも多かったことが、この手紙から見て取れる。
それでは、受け取りを拒否された隆隆信の首はどうなったのか。現在、熊本市の北西、有明海に臨んで熊本県玉名市がある。ここを高瀬川(菊池川)が流れており、この川の西岸近く、玉名市高瀬に願行寺があり、本堂裏に隆信の首塚がある。
『隆信公御年譜』は「御首俄に磐石の如く重くなられしかば、諸人大きに怖畏れてけり」といい、「是れは天正九年、島津と龍造寺肥後を二つに分け、高瀬川を境とせらる。其堺を越えられじまじきとの事なるべしと、高瀬の願行寺に、島津義久より奉行を遣し、此寺に葬りなさる。御法名宗阿弥陀仏と号せらる」とある。
玉名市教育委員会編『玉名市の文化財(総集編)』には大筋同じ内容が紹介されている。つまり「隆信の首級は柳川城にあった鍋島加賀守直茂のもとへ送られたが、直茂は、とむらい合戦もせずして受け取ることは先主に対し道義にそむくとしてこれを辞退した。そこで薩摩軍は本領八代へ持ち帰る途中玉名郡高瀬川にさしかかると、にわかに首級が重くなり、磐石の如くにして川を越すことができず奇異に恐れ、首級を高瀬願行寺主四阿弥仏という時宗の僧に任ね、葬送の儀を執行し、境内に埋葬した」と述べる。
一方、戦場に残された隆信の胴体は、隆信が建立した佐嘉・龍泰寺の大圭和尚が戦場に出向き収容した。遺体は有明海を舟で渡って湯江に着き、ここで荼毘に付された。そこは和銅元年(708)に行基により創建されたことから、年号が寺名になった古刹、和銅寺(長崎県諫早市高来町)で、本堂に位牌も安置されている。荼毘跡は土饅頭の形に盛られていたが、墓はなかった。ただ明治2年(1869)に一族の者によって墓碑が建立されている。
遺骨は龍泰寺(佐賀市赤松町)に墓標を立て葬られた。法号は龍泰寺殿泰厳宗龍大居士という。ところが慶誾尼の強い意志もあって、心もとない隆信の嫡子政家に代わって鍋島直茂が国政の実権を握った。そこで天正16年(1588)、直茂は龍造寺家を敬って隆信のために佐賀(佐嘉)城の鬼門(北東)に宗龍寺という菩提寺を建立し、龍泰寺から墓を移転させた。この寺名は隆信の法号から採ったが、法号は法雲院殿泰厳宗龍大居士と変更された。だがこの墓も現在は移転してなく、「隆信公塚跡」の墓形の碑が、墓跡に建っているだけである。
※本記事は、楠戸義昭著『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月23日 00:05