2018年04月09日 公開
2019年03月27日 更新
高倉宮跡(京都市中京区)
後白河天皇の皇子以仁王の御所。高倉小路に面していことから、高倉宮と呼ばれた。
治承4年4月9日(1180年5月5日)、以仁王が平家追討の令旨を発しました。平家討伐に最初に踏み切った人物です。
以仁王は仁平元年(1151)、後白河天皇の第三皇子に生まれました(兄が仏門に入ったため、第二皇子とも)。三条宮、高倉宮とも称されます。母親は藤原季成の娘・成子。 幼くして天台座主最雲法親王の弟子となりますが、最雲が没したため出家せず、永万元年(1165)、15歳で元服。高倉天皇につぐ皇位継承者として年月を送りました。
以仁王は学問や詩歌に優れ、英才の誉れが高かったといわれます。 にもかかわらず親王宣下も受けられず、不遇であったのは、母親が高倉天皇の生母・建春門院に嫌われていたためであるという説もあります。
治承3年(1179)、平清盛による政変で後白河法皇が幽閉されると、以仁王も長年所有してきた九条の城興寺領を没収され、平家の支持する天台座主明雲に与えられることになりました。それでもまだ以仁王には、即位する望みがありましたが、翌治承4年に安徳天皇の即位が決まると、すべての望みが絶たれることになります。
そこで以仁王は源三位頼政の勧めに応じ、平家追討の令旨を発して挙兵に踏み切りました。全国に雌伏する源氏への、武装蜂起命令です。しかし、この挙兵計画は事前に平家方に漏れ、平家の朝廷への圧力で以仁王は皇族籍を剥奪、源姓を下賜されて源以光となり、土佐に配流されることになりました。
そして以仁王の高倉宮に兵が差し向けられますが、以仁王は事前に脱出し園城寺に入ります。これに応じて源頼政も一族を率いて園城寺に入り、以仁王と合流しました。以仁王のねらいは園城寺だけでなく、延暦寺、興福寺の衆徒を合わせた寺院勢力を味方につけようというものです。
ところが延暦寺の協力を得ることができず、さらに寺内にも平家寄りの者も少なくなかったため、やむなく以仁王と頼政は南都寺院の勢力を頼ろうと、園城寺を出ました。
治承4年5月26日、以仁王一行は南都に向かう途中の宇治の平等院付近で追討軍の攻撃を受け、頼政が宇治で防いでいる間に、以仁王は興福寺に向かおうとしますが、追手の一隊に追いつかれて、討たれたといわれます。享年30。
『平家物語』には、以仁王は浄衣に着替えた首なしの骸となって、贄野の池で発見されたとあります。その一方で以仁王の顔を知る者は少なく、生存説がすでに当時から囁かれていました。たとえば一級史料とされる九条兼実の『玉葉』に、頼政以下の軍兵は討たれたが、以光(以仁王)はそれを免れて、南都に移った噂があることが記され、また以仁王と頼政は駿河を経て、さらに東国に向かった噂があることも伝えています。また同じ『玉葉』に、以仁王の身代わりとして、王のもとに出入りしていた菅冠者という30歳過ぎの美男子が死んだという説も紹介されています。
そして生存の噂が流れる中、以仁王の令旨は効力を保ち、源頼朝や木曾義仲を起たせて、平家を討つことになりました。以仁王が生存していた可能性は低いと思いますが、令旨は間違いなく生きて、時代を動かしたともいえるでしょう。 ちなみに木曾義仲が擁した北陸宮は、以仁王の第一王子です。
更新:12月10日 00:05