2018年03月31日 公開
2019年02月27日 更新
明治10年(1877)3月31日、西南戦争の只中、豊前中津で薩摩軍(西郷軍)に呼応した士族たちが反乱を起こしました。そのうち増田宋太郎率いる64人は薩摩軍に身を投じ、ともに戦うことになります。
西南戦争では、西郷隆盛をはじめとする薩摩人だけでなく、明治政府に不満を抱く九州各地の士族たちも起ち上がり、合流しました。主な部隊には、都城隊(旧薩摩藩領)、佐土原隊(薩摩藩支藩)、熊本の熊本隊・熊本協同隊・竜口隊、人吉の人吉隊、日向の延岡隊・高鍋隊・飫肥隊、高鍋分領の福島隊、豊後の竹田報国隊、そして中津隊などがあります。彼らは薩摩軍に与した部隊であることから、「党薩隊」とも呼ばれ、最盛期にはその数は1万人を超えました。
彼らはなぜ、政府に不満を抱いたのか。それは明治維新に向けて、命がけで戦ったにもかかわらず、新政府の廃藩置県、秩禄処分で旧藩士の収入が大幅に減ることになり、さらに四民平等で武士階級の特権も奪われてしまったからです。近代化に向けて急ぐあまり、明治政府は士族に見返りを与える余裕がありませんでした。ある意味、不平士族たちの叛乱は起こるべくして起きたといえますし、西郷自身も叛乱は無益なことと承知の上で、政府のあまりに徳のない仕打ちへの反省を促した面もあったのかもしれません。
さて、中津隊を率いる増田宋太郎という人物、実はかの福沢諭吉の再従弟にあたります。 嘉永2年(1849)の生まれですから、当時29歳。母方の祖父は九州における国学の大家で、増田も尊王攘夷思想を強く抱いていました。そのため、英学をはじめ西洋知識に造詣の深い福沢に反感を抱き、一説に明治3年(1870)、福沢が中津に帰郷した折、暗殺を企てて福沢の実家に乗り込んだといいます。ところが福沢に説諭されて目を開き、その後、慶應義塾で学び、民権運動にも関わります。中津に帰郷後は英学を教える一方、「田舎新聞」という新聞を発行していました。そうした新時代の息吹を知る増田が、あえて叛乱を起こし、薩摩軍と行動を共にしたところに、西南戦争を読み解く鍵があるのかもしれません。
明治10年8月15日、日向延岡から退却した薩摩軍は和田峠に拠り、西郷自ら陣頭に立って、西南戦争最大ともいわれる戦いを展開。しかし、衆寡敵せず、薩摩軍は敗れました。翌日、西郷は解軍の令を出し、自ら陸軍大将の軍服や書類を焼き捨てました。このため、薩摩軍諸隊から政府軍に投降する者が相次ぎます。
この時、増田は中津隊の同志たちに言いました。
「薩人たちは故郷の鹿児島で死のうとしている。われわれ中津隊の役目も終わった。諸君はもはや薩人に同調せねばならぬ義理はない。自分を置いて中津に帰れ」
増田のみが残ることに一同が不審そうな顔をすると、増田はこう続けます。
「自分は隊長となったために、西郷という人格にしばしば接した。 諸君は幸いにも西郷を知らない。自分だけが職務上これを知ったが もはやどうにもならぬ」
そう言って落涙する増田に、同志たちはさらに困惑し、理由を尋ねました。すると…
「一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず。 親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」
その後、薩摩軍300人余りは鹿児島の城山に籠り、5万の政府軍に包囲される中、9月24日に総攻撃を受け、西郷は自刃。主だった将兵はすべて西郷と運命をともにしました。その中に、増田の姿もありました。 西郷の人柄とともに、西南戦争とは何であったのかを考えさせられる逸話ではないでしょうか。
更新:12月10日 00:05