2018年03月26日 公開
2019年02月27日 更新
松尾芭蕉(葛飾北斎画)
Wikipedia
元禄2年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉が弟子の河合曾良(そら)を伴って、「おくのほそ道」への旅に出立しました。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり」
有名な『おくのほそ道』の冒頭です。
元禄2年3月27日、松尾芭蕉は深川の採荼庵(さいとあん)を出発し、およそ5カ月に及ぶ旅に出ました。住み暮らした家は他人に譲り、「草の戸も住みかはる代ぞひなの家」の別れの句を柱にかけます。時に芭蕉、46歳、曾良、41歳。
芭蕉は寛永21年(1644)、伊賀国(現在の三重県伊賀市)に柘植の土豪の一族・松尾与左衛門の次男に生まれました。幼名、金作。通称、甚七郎、甚四郎。身分は農民ですが、母親は百地氏の一族ともいわれ、芭蕉は忍びではなかったかという説もあります。
寛文2年(1662)、19歳の時に伊賀上野の藤堂家の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠に仕えました。良忠は2歳年上でしたが、主君とともに京都にいた北村季吟に師事して、俳諧の道に入ります。
しかし4年後、主君の良忠が死去。芭蕉は致仕し、延宝2年(1674)に師の季吟より『俳諧埋木』の伝授を受けると、翌年、32歳で江戸に赴きました。そして江戸で俳人たちと交流しつつ、延宝6年(1678)頃には宗匠となって、俳句を生業とすることになります。
俳諧の世界で生きることは容易ではありませんが、芭蕉は一定の成功を収めて弟子も増えました。収入は安定しましたが、やがて弟子たちの指導に時間をとられ、自分を磨く余裕を失っていることに気づきます。
延宝8年(1680)、芭蕉は突如、居を日本橋から深川に移しました。静寂で孤独な生活の中で、自分の俳諧を高めようとしたのです。芭蕉という雅号を使うのもこの頃からでした。
やがて天和2年(1682)に大火(八百屋お七火事とも)で焼け出され、住まいを持つことに空しさを覚えます。そして40歳を過ぎると、自分の人生の先も長くないと感じ、自分なりの俳諧を残したいと考えるようになりました。 そのためには旅に出るのが最も良い。それも生きるか死ぬか、自分を俗世間から離れた極限状態におけるような旅が良いと考えるに至ります。
すでに貞享元年(1684)、41歳で東海道を西に旅する『のざらし紀行』に出かけ、貞享4年(1687)、44歳で伊勢に向かう『笈の小文』の旅を踏破した芭蕉は、いよいよ元禄2年に東北へと向かうのです。
ちょうどこの年は、西行の500回忌にもあたりました。 深川を出立以降の主な足取りは、千住、日光、黒羽、那須、白河、多賀城、松島、平泉、立石寺、新庄、出羽三山、鶴岡、酒田、象潟、出雲崎、市振の関、那古の浦、金沢、小松、片山津、山中温泉、那谷寺、大聖寺、吉崎、敦賀、大垣です。
全行程およそ600里(2400km)。平均、1日16km。決して楽な旅ではなく、極限状態を感じることも多々あったことでしょう。しかしそこから、多くの名句が生まれています。
更新:12月10日 00:05