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戦国時代、長崎はイエズス会の領地だった!?

2018年03月26日 公開
2023年03月31日 更新

『歴史街道』編集部


 

南蛮貿易の港として開かれた長崎は特異な場所だった

島津 ・大友・龍造寺の三家や各地の国衆が戦った戦国時代の九州の中で、元亀2年(1571)に南蛮貿易の港として開かれた長崎は、特異な場所だった。天正8年(1580)に、その地を領していた大村純忠によって、イエズス会に寄進されたからだ。以降、天正15年(1587)に豊臣秀吉が没収するまで、長崎はイエズス会が統治することになる。

永禄6年(1563)に受洗した大村純忠は、龍造寺隆信によって圧迫されており、天正5年(1577)に人質を出して従属している。寄進の時点では、大村家の長崎に対する支配は弱まっており、自治都市化しつつある状況だった。

イエズス会領となった長崎は武装を進める。特に、キリシタン大名である大村純忠や有馬晴信に脅威を与えている龍造寺隆信を敵視し、ルイス・フロイスは彼を「キリシタン宗団の大敵」「キリシタン宗門の迫害者」と呼んだ。

日本準管区長ガスパル・コエリョは、大村純忠に対して龍造寺隆信に対する挙兵を促すなど軍事路線を唱えたが、彼の上司に当たる東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、「非常な危機を感じて心痛し、その対策に窮した者の幻想的な妄想」と、コエリョを突き放している。

天正10年(1582)にヴァリニャーノが天正遣欧使節とともに日本を離れると、コエリョは軍事路線を進め、沖田畷の戦いで有馬晴信を支援。島津・有馬の連合軍が龍造寺隆信を破ると自信を深め、秀吉のバテレン追放令(1587年)に対して、スペイン領マニラに援軍を求めて対抗しようとするまでに至る。

こうした動きが、秀吉や徳川家康のイエズス会に対する警戒心を高め、禁教令へと繋がったといえよう。

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