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新島襄~キリスト教主義による「一国の良心」教育

2018年01月23日 公開
2022年08月25日 更新

1月23日 This Day in History

帰国後、山本覚馬らの協力を得て同志社を設立

帰国後、安中の両親に挨拶した襄は明治8年(1875)、大阪で学校創設に向けて走り出します。そしてそんな襄に共鳴して、協力を惜しまなかったのが、アメリカ人宣教師のディヴィスと、元会津藩士で京都府顧問の山本覚馬でした。一説に、襄に覚馬に会うよう勧めたのは、勝海舟であったといいます。

山本覚馬は慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の際、失明の身で薩摩藩に捕らえられますが、幽閉されている中、『管見』と題する新国家の具体的なプランを口述筆記で新政府に示し、政府関係者を瞠目させています。 維新後、そのプランに則って、京都の殖産興業と人材育成に尽力し、襄のキリスト教主義の学校設立を京都で実現するよう支援しました。

そして明治8年11月、京都寺町の公家・高松保実別邸の半分を借りて校舎とし、京都府知事・槇村正直の賛同も得て、襄は同志社英学校を開校します。同志社と命名したのは、山本覚馬でした。開校時、教師は襄とディヴィスの2人、生徒は8人でした。

また同じ頃、襄は山本覚馬の妹・八重に出会います。八重は会津戦争を戦い抜き、明治4年(1871)に兄・覚馬に呼ばれて母・佐久、覚馬の娘・みねとともに京都に来ていました。襄はある時、京都府知事の槇村からどんな婦人が好みかと訊かれ、「夫が東を向けと言ったら、3年も4年も東を向いている女性は御免です」と言うと、「それならばぴったりの女性がいる」と、八重の話を聞いたといいます。襄は同志社開校の直前に八重と婚約し、明治9年(1876)1月2日に八重は京都で初めての洗礼を受け、翌3日、ディヴィスの司式で結婚式を挙げました。当時、古都京都ではキリスト教への反発が強く、八重にとっても襄との結婚は勇気を要しましたが、負けん気の強い八重は、それに怯むことはなかったようです。

アメリカの精神を伝えようとするディヴィス、賊軍の汚名を着せられた会津藩士の覚馬、そして密航してキリスト教精神を体感した襄たちは、薩長中心の「勝てば官軍」の新政府が目指すところとは別の学校として同志社を位置づけていました。すなわち官立学校のように一部のエリートを育成するのではなく、キリスト教主義に基づいて、「一国の良心というべき人々」、民間にあって時代に対し、公正な立場から提言できる人材を育成するための学校です。実際、同志社からは幾多の優れた人材が巣立ちました。明治9年には、覚馬が提供した今出川の地に学校を移転します。
 

熊本バンドと「自責の杖」事件

また明治9年には熊本洋学校で聖書に触れ、キリスト教や西洋の学問に関心を抱いた「熊本バンド」と呼ばれる若者たちの中心メンバーが、同志社英学校に転校してきます。 そのリーダー格が、襄が「倜儻不羈(てきとうふき、信念と独立心に富み、常軌で律し難い)」と評した徳富猪一郎(後のジャーナリスト・徳富蘇峰)でした。

明治13年(1880)、当時の2年生の上級・下級の2つのクラスを学校側が一つにまとめようとしたところ、生徒たちが反発し、授業を全員が無断欠席する事態が起こります。上級生の徳富らもこれを後押ししました。 すると襄は、朝の礼拝の後にステッキを持って演壇に立つと、生徒全員の前で、「罪は教師にも生徒諸君にもない。紛争の全責任は校長にあります。校長である私は、その罪人を罰します」と言うと、ステッキで自分の左手を激しく打ち始めました。やがてステッキはへし折れますが、それでも襄は打つのをやめません。たまりかねた生徒の一人が、泣いて襄を止めました。「自責の杖」事件として、今も語り継がれているものです。

その後、襄は心臓を患いますが、同志社女学校の設立と発展、また同志社大学の設立に向けて、伝導活動の傍ら、病躯をおして各地を奔走しました。明治17年(1884)、襄は恩人ハーディーの招きに応じ、静養も兼ねてヨーロッパまわりでアメリカに向かいます。翌年秋、帰国した襄は再び多忙な日々を送りますが、病は深刻になりつつありました。
 

グッドバイ、また会わん

明治21年(1888)には「同志社大学設立の旨意」を全国の主要新聞・雑誌に発表、それを執筆したのは教え子の徳富猪一郎です。

明治23年(1890)、募金運動中に前橋で倒れた襄は、静養先の神奈川県大磯の旅館で、徳富猪一郎らに10ヵ条の遺言を託しました。そして京都から駆けつけた八重に「グッドバイ、また会わん」と言い残し、永眠します。享年48。最後まで、理想の実現のために走り続けた生涯でした。

常にその熱意が周囲を動かし、人々の助けで道を切り開いた襄でしたが、こんな言葉を残しています。

「男子たるものは、一度戦って負けてもやめてはならない。二度、三度の戦いの後でもやめてはならない。骨がくだけ、最後の血の一滴まで流してはじめてやめるのだ。真理のために身を投げ出すのでなければ、我々の生命も無用ではないか」

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