2017年12月28日 公開
2017年12月28日 更新
復元された平城京の大極殿
政治と民の距離は、今よりずっと遠かったはずです。けれど、要職にある人たちが次々に倒れ、亡くなっていることを知った人々は、さらに恐怖を覚えたでしょう。
人は未知のものに対して不安や怖れを抱きます。得体の知れない新興宗教に縋る、あるいは身なりや言葉の違う外国人を「厄災を持ち込んだ」と見なして攻撃する――『火定』の中でも描きましたが、ふだんは「バカバカしい」と一笑に付すようなことが、起こり得るのがパンデミックです。
そうした中でも、天平9年6月、『典薬寮勘申』が発表され、そこには、猛威を振るう疫病への対処法が示されました。ただそこに書かれていることは、医学には素人の私でも違和感のあるものが少なくありません。
たとえば「水を飲ませると死ぬから飲ませるな」「辛いものや生魚は食べさせてはいけない」など。根拠がわかりませんけれど、必死で治療の糸口を探していたんだということは伝わってきます。
天平9年の疫病の大流行は、政治的クライシスとしてもパンデミックとしても、日本史に大きな影響を及ぼした厄災です。
藤原四兄弟が亡くなった後、藤原氏の勢力は大きく後退し、聖武天皇を中心に橘諸兄などによる皇親政治が始まります。それに対して藤原氏では、四兄弟における一番上の武智麻呂の子・仲麻呂が巻き返し、その後には道鏡が現われ……と、政局は混迷を深めていくのです。
この疫病の大流行は、まさしく奈良時代のターニングポイントになった出来事でした。のちに造られる東大寺の大仏も、この疫病とは無縁ではなかったと考えていいでしょう。
時代が下ると、疱瘡は“定着”していきます。悪神として擬神化され、「疱瘡神」として人々に怖れられ続けました。
江戸時代には、疱瘡神を封じる「疱瘡除け」として、源為朝の絵が出回りました。保元の乱の後、伊豆大島に流された為朝が支配下に収めたとされる八丈島には、疱瘡がなかったからです。
長い間、人々を苦しめ続けた疱瘡。その苦しみから解放されるのには、種痘が発見され、世界中に普及した二十世紀を待たなくてはなりませんでした。
※本記事は「歴史街道」2018年1月号より転載したものです。
更新:11月24日 00:05