2017年09月25日 公開
2020年09月22日 更新
昭和60年(1985)9月25日、奈良県の円墳・藤ノ木古墳で、石室と家形石棺が発掘されたと発表されました。膨大な副葬品が一大センセーションを呼び、二人の被葬者が誰かについては複数の説があります。
石棺内の副葬された金銅製品が未盗掘で、今なお輝きを失っていなかったことも驚きでしたが、それ以上に驚かれたのは、石棺の中に2体の遺骸が埋葬されていた点でした。一つの棺に二つの遺骸が収められているのは、現在のみならず、はるか昔でも珍しいことです。もし遺骸が男女であれば、夫婦か親子か、極めて縁の深い関係者でしょう。ところが藤ノ木古墳の場合、どちらも成人男性なのです。この異例の埋葬方法が何を意味するのか、興味深いところですが、考古学者の故・森浩一さんは、さらに異例の事実を挙げています。すなわちこの古墳には陵堂と呼ばれる墓守の建物が、江戸時代以降に存在していたというのです。 墓守がいて墓を保守点検するなどというのは、天皇陵ですら、あり得ないことでした。そして藤ノ木古墳の副葬品が未盗掘であったのは、多くの人々が玄室内に入って、それらを整理し維持していたからであるらしいのです。 一体なぜ、陵堂を置いて、墓を守る必要があったのか。そして、被葬者は誰なのか、非常に興味がそそられます。
一説に、被葬者は暗殺された崇峻天皇ではないかといわれます。もし、陵堂を鎮魂のためのものと解釈すれば、それもあり得るでしょう。しかし、崇峻陵は桜井市にあったという伝承もあり、断定はできません。 とはいえ、別の被葬者を想定する時、副葬品の豪華さから、大王、王子クラス、もしくは蘇我、物部の二大豪族ぐらいしか、該当者はないといわれます。 そして今、有力候補とされているのが、穴穂部皇子と、宅部皇子の二人です。
穴穂部皇子は欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟でした。 敏達天皇が崩御すると、穴穂部皇子は「死んだ王に仕えながら、なぜ生きる王に仕えないのか」と天下への野心を露にし、敏達天皇の皇后・炊屋姫(後の推古天皇)を我が物にしようとします。しかし、野望は挫かれ、用明天皇(聖徳太子の父帝)が即位すると、穴穂部皇子は有力者の物部守屋と結び、守屋は穴穂部皇子を次期大王に担ぎました。 やがて仏教興隆を求めた用明天皇が崩御すると、後嗣が決まらないところに、排仏派の守屋は穴穂部皇子を後継者にしようとします。これに対し、守屋の政敵であった蘇我馬子は、炊屋姫を奉じて軍勢を発し、守屋が推す穴穂部皇子と、皇子と親しかった宅部皇子を暗殺しました。 守屋が蘇我馬子や厩戸皇子(聖徳太子)らによって討たれるのは、それから一月後のことです。そして藤ノ木古墳は、物部氏が蘇我氏に敗れる過程で命を落とした穴穂部皇子と宅部皇子の遺体を葬るために造営されたのではないか、というのが最近有力な説なのです。
もちろん埋葬したのは彼らに敵対する立場の者たちです。一つの仮定として、二人の皇子を貶める意味で、一つの棺に埋葬した可能性もあるのかもしれません。では、陵堂を設けて、はるか後世まで墓を管理していたのはなぜか。それは被葬者を貶める一方で、彼らの祟りを防ぐための鎮魂であったという見方もあるようです。
それにしても、江戸時代に陵堂をしていた人たちがいるとしたら、それは誰に命じられていたものなのか、これもまた歴史の謎、ミステリーです。
更新:11月23日 00:05