2017年05月08日 公開
2022年07月11日 更新
台湾・烏山頭水庫(台南市)
昭和17年(1942)5月8日、八田與一(はったよいち)が没しました。烏山頭(うさんとう)ダムを建設し、台湾の人々から今も慕われ続ける日本人です。八田與一については現在発売中の「歴史街道」でも総力特集を組んでいますが、ここでも少しご紹介いたします。
今も「台湾で最も尊敬されている日本人」と称される八田與一。彼の功績は台湾の教科書に、写真入りで紹介されているそうです。 そんな八田は明治19年(1886)、石川県河北郡花園村(現在の金沢市今市)に生まれました。明治43年(1910)に東京帝国大学工学部土木科を卒業し、台湾総督府内務局土木課の技手として勤務します。ちなみに当時の台湾は日清戦争後に締結された下関条約により、明治28年(1895)から日本の統治下にありました。日本は台湾の開発と近代化に、正面から取り組んでいます。
台湾総督府・初代民政長官の後藤新平の活躍なども知る人は多いでしょう。八田もその生涯のほとんどを台湾で過ごし、台湾の開発に人生を捧げることになりました。 その最大の仕事は、嘉南平野に農業用水を供給するための、灌漑工事です。15万ヘクタールにも及ぶ嘉南平野は、河川が少ないために深刻な旱魃の危険に常にさらされた不毛の土地とされてきました。農民たちは水不足に悩まされながら、貧しい生活を送らざるを得ず、また雨期には逆に洪水の危険があるという、治水事業が不可欠の場所であったのです。
八田はその大規模な水利工事の指揮をとりました。ダムを建設して水源を確保し、さらに水路を平野に縦横に張り巡らせて、不毛の地を豊饒な大地へと変貌させようとしたのです。 大正9年(1920)から始まった工事は、昭和5年(1930)の完成まで実に10年にも及びますが、八田は陣頭指揮を執り続けました。日本人も台湾人も一緒になって取り組み、八田は自ら率先して危険な現場にも足を運んで、工員たちからも篤く信頼されたといわれます。その結果、貯水量1億5千万㎥の大貯水池・烏山頭ダムと、嘉南平野一帯に16,000kmにも及ぶ細かく張り巡らせた水路がついに完成、これらは嘉南大圳(たいしゅう)と呼ばれました。
これによって潤された嘉南平野は、台湾最大の肥沃な穀倉地帯へと生まれ変わります。今では米の他にサトウキビ、マンゴー、スイカ、バナナなどが実り、米は年に2回収穫できるそうです。
ダムの建設中、落盤事故などで134人が犠牲となりました。その慰霊碑には、八田の強い希望により、全員の名前が日本人と台湾人を区別することなく、亡くなった順番で彫られています。台湾の人々は八田への感謝の気持ちを込めて、ダムが完成した翌年に八田の銅像を建てました。その銅像は座った姿で右手を額のあたりに添えています。八田が考え事をしている時に、よくとっていたポーズでした。
しかし太平洋戦争中の昭和17年(1942)、フィリピンの綿作灌漑調査を命じられた八田は、「大洋丸」に乗船して五島列島南方を航行中、アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて船が沈没、不慮の死を遂げます。享年56。
その3年後の昭和20年(1945)8月、敗戦を迎えて、日本人は台湾から去ることになります。 八田與一の妻・外代樹(とよき)は、傷心の中で、夫が心血を注いでつくりあげた烏山頭ダムの放水路に身を投げました。いつまでも夫とともにいたいという思いからでしょうか。享年45。
台湾の人々は、八田夫妻の悲しい最期を嘆き、「八田與一、外代樹之墓」と刻まれた墓石を建てて、弔いました。 毎年、八田の命日の5月8日には墓前祭が行なわれ、多くの台湾の人々が訪れて、手を合わせます。
過日、八田の銅像についてはたいへん残念な事件がおこりましたが、台湾でそれだけ慕われている日本人がいたことを、私たち日本人も心に留めておきたいものです。
更新:11月28日 00:05