2017年05月05日 公開
2019年04月24日 更新
5月5日は端午の節句です。「端午」というのは、もともとは「月の初めの午の日」ということで、毎月の最初の午の日を指していたそうです。それが「午(ご)」が「五」の音と同じであることから毎月の5日になり、5月は「5」が重なることから特にめでたいということで、5月5日が端午の節句として祝われるようになったとのこと。
古来、中国では端午の節句に薬草を摘んで蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりする風習があり、日本でも奈良時代頃から病気や災厄をさけるための行事が行なわれました。宮中で厄除けの菖蒲を飾り、人々によもぎなどの薬草を配ったり、悪鬼を退治するために馬から弓を射る儀式が行なわれたようです。
江戸時代になると、徳川幕府は5月5日を重要な式日に定め、大名や旗本が式服で江戸城に登城する日とされますが、そうした中で、厄除けで「菖蒲」を重宝した端午の節句が「尚武」を重んじる武士の風習となり、男子の誕生を祝う日となりました。五月人形や兜を飾るようになったのは、そうした風習から生まれたということですが、一方で、鯉のぼりはまた別の流れで、江戸時代の町人階層から生まれた風習だそうです。鯉は池や沼でも生息することができる生命力の強い魚で、急流をさかのぼります。中国の伝説では、鯉は竜門という滝を登ると竜になって天に登るとされ(「登竜門」の由来)、そこから、子どもがどんな環境にも耐え、立派な人になるようにと立身出世を願って、鯉のぼりが飾られるようになりました。
端午の節句の食べ物といえば、粽や柏餅がありますが、なぜそれらを食べるようになったのでしょうか。まず、粽については、もともと古代中国で忠誠心の象徴とされる食べ物だったそうですが、端午の節句にちなむようになったのは戦国時代の紀元前278年のこと。 楚(そ)の国に仕えた高名な愛国詩人の屈原(くつげん)が、陰謀で国を追われて川に身を投げました。その日が5月5日だったので、屈原の死を悲しんだ人々が粽を川に投げ入れて弔ったことから、端午の節句に粽を作って食べるという風習が生まれたと言われています。蘆の葉で米を包んだ中国の粽は、平安時代までには日本に伝わりましたが、それが和菓子となったのは戦国時代のことです。戦乱で疲弊していた朝廷に餅を毎朝献上し続けた餅屋の川端道喜(中村五郎左衛門)が、吉野葛を笹の葉に包んでつくったのが始まりです。 これは「道喜粽」という京銘菓として、今もよく知られています。 一方、柏餅は江戸時代に生まれた食べ物です。柏の木が冬に落葉せず、新芽が芽吹いてから落葉するため、後継ぎができるまで親葉が落ちないということで縁起がよく、子孫繁栄を願う端午の節句に食べられるようになったとのこと。
こうして見ると、端午の節句は中国の厄除けの風習が元となって、子孫繁栄を願う日本の文化が新たに加わり、いろいろと縁起を担いで現在のような形になっているようです。
更新:11月25日 00:05