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滝川一益の脱出と真田の人質

2016年02月21日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

木曾義昌の信濃への野望

依田信蕃の協力により、木曾へ進むことができた滝川一益ですが、ここで障害にぶつかります。木曾義昌が領内通過を拒んだからでした。そこで滝川は、自分が連れている佐久・小県の人質を木曾に進上するので、通過を認めてほしいと交渉、木曾はこれを承諾します。

木曾が人質を欲したのは、佐久・小県の人質を押さえることで、国衆たちを自分に従属させ、信濃の制圧も可能になると読んだからでした。この辺はドラマで描かれた通りです。木曾義昌とはどんな人物か、少しご紹介しましょう。

木曾氏はもともと信州木曾谷を領する国衆で、木曾義仲の末裔を自称しています。木曾義昌の父・義康の時に武田信玄に降伏。この時、義昌は16歳ですから、ドラマで言っていたように、信玄の前で小便をもらすほどの「子供」ではなかったでしょう。幼名は宗太郎。

信玄は自分の娘を義昌に娶わせ、木曾氏を武田の親族衆として組み込みました。美濃・飛騨との国境を押さえるために、木曾谷の木曾氏を味方にしておく必要があったのです。

信玄の死後、武田の凋落が始まると、木曾義昌は次第に勝頼に不満を抱き始めます。特に新府城造営の際の費用負担を強いられたことは、武田を見限る大きな原因となりました。そして美濃苗木城主の遠山友忠の仲介で織田信長に通じ、勝頼に叛旗を翻すのです。

ドラマでは「大恩ある武田をなぜ裏切った」と、とりにひっぱたかれていましたね。しかし、武田を裏切ったことで、人質であった母親や子供たちを処刑されることになり、義昌にすればそれを覚悟した上での、相当に重い決断であったはずです。

織田の甲州攻めに協力し、功績を挙げたということで、武田家滅亡後、義昌は信長から本領安堵に加えて、筑摩・安曇郡を加増され、深志城(松本城)に城代を置きました。

しかし本能寺の変後の天正壬午の乱において、深志城は上杉景勝の支援を受けた小笠原長種に奪われ、本領に撤退。その後、家康に味方して再度、筑摩・安曇を安堵されるものの、深志城を取り戻すことはできず、その後、羽柴秀吉に接近していきます。

なお、義昌が家康に従った際、佐久・小県の人質も義昌の下から離れ、昌幸の老母も無事に真田に戻ることになります(辰)

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