『歴史街道』2012年12月号では、真田信之と幸村兄弟を取り上げ、戦国時代の歴史の狭間で信じる道を貫いた2人の生き様を描いています。
※本稿は、『歴史街道』2012年12月号総力特集「真田信之と幸村」より、内容を一部抜粋・編集したものです。
「いよいよその日が参ったな、源次郎」。
真田信之はひとり江戸の空を見上げ、戦場の弟・幸村に語りかけます。慶長20年(1615)5月7日。大坂では夏の陣の最終決戦を迎えていました。
「おぬしのことだ。本日の戦では、父上譲りの兵法を存分に駆使するのであろう。赤備えに白熊の兜で突進する姿は、徳川の者には武田の大御屋形様(信玄)が甦ったかと見えような」。
信之は一瞬頬を緩め、
「それでよいのだ。兄への気兼ねは無用のこと。数を恃む腰抜け武者どもに、真田の戦ぶりを見せつけてやれ。後のことは案ずるな。わしはわしの戦をするまでだ」。
関ケ原直前に敵味方に分かれた真田信之、幸村兄弟。それぞれの「六文銭」の誇りを貫く生き方を描きます。
松代真田家14代当主・眞田幸俊氏と童門冬二氏の特別対談のほか、8本の論考でさまざまな角度から論じる「総力特集・真田信之と幸村」。詳しくは本誌に譲るとして、ここでは、"幸村の謎"に迫るコラムを転載してお届けします。
戦国武将の中でも屈指の人気を誇る真田幸村だが、意外にも、その実年齢は諸説あって判然としない。真田家重臣が編纂した『左衛門佐君伝記稿』には、永禄10年(1567)生まれとある。
一方、「長国寺過去帳」にある没年から逆算すると永禄13年(1570)生まれとなる。前者ならば信之より1歳年下、後者ならば4歳年下となるのだ。
この問題については、真田家重臣編纂という筋目を重んじて前者を採る研究者がいる一方、天正13年(1585)に幸村が上杉家の人質となったことに注目する研究者もいる。
上杉家の史料は幸村を「弁丸」という幼名で記しており、そうなると元服前の、より年齢の低い永禄13年生まれが妥当というのだ。
さらに複雑なのが、信之(信幸)と幸村の通称だ。信之は「源三郎」、幸村は「源次郎」。それゆえ幸村は妾腹の出で、信之より実は年長ではないか、とする向きもある。
もっとも、『加沢記』は、幸隆三男である父・昌幸を「源五郎」、四男、信尹を「源次郎」としており、出生順と通称は無関係だ。現時点では、幸村の年齢は確定できないのである。
実年齢だけでなく、「幸村」の名の由来も実はわかっていない。周知のように、史実における幸村の実名は「信繁」で、武田信繁を敬愛する昌幸が命名したともいう。
幸村の名が文献上初めて確認できるのは、寛文12年(1672)頃成立の『難波戦記』で、この書が人気を博し、幸村の名が広まったという。
ではなぜ、幸村なのか。一説に、真田家の通字「幸」と幸村の姉・村松殿の「村」を合わせたという。
また、幸村の子孫が仙台伊達家に仕えたが、軍記作者に取材を受けた際に、時の藩主・伊達綱村の1字を混ぜ入れたという説もある。
しかし、綱村と名乗ったのは『難波戦記』成立の6年後のことで、名の由来も決め手となるものはなく、幸村は実はいまだ、多くの謎に包まれているのである。
(なお、本特集では便宜上、「幸村」の名を用い、永禄10年生まれとした)
更新:11月22日 00:05