大河ドラマ『光る君へ』を見ていると、『源氏物語』の主人公・光源氏は、誰かをモデルにしているのではないかと気になる方も多いだろう。果たして、光源氏は実在の人物をモデルとしているのだろうか。著述家の古川順弘氏が解説しよう。
※本稿は、古川順弘著『紫式部と源氏物語の謎55』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです
父親は天皇で、ハンサムで、有能な政治家で、教養豊かで、歌舞や琴の名手で、絵画の才もあり......といった具合に、いくらでも賛辞を連ねてゆくことができるスーパースター光源氏は、もちろん、物語の中の架空の人物ではある。だが、たとえば池波正太郎の『鬼平犯科帳』の主人公が実在した火付盗賊改方長谷川平蔵をモデルとしたように、そのキャラクターのモデルを、実在の人物に見出すことはできないのだろうか。
公卿四辻善成(よつつじよしなり)の手によって貞治年間(1362〜1368年)頃に成った『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかいしょう)』は、第一巻「桐壺」の「光る君と聞こゆ」という文、つまり少年時代の光源氏が「光る君」と称えられたとする記述に、注として、敦慶(あつよし)親王、是忠(これただ)親王、源光(みなもとのひかる)という三人の実在した人物の名を挙げている。
この三人を光源氏(光る君)に擬すことができるということなのだろう。そこで、この三人のプロフィールを簡単に紹介してみよう。
●敦慶親王:887〜930年。宇多天皇の第四皇子で、中務卿、式部卿などを歴任。容姿端麗の色好みで、「玉光宮」と称された。和歌や琴にも優れた。
●是忠親王:857〜922年。光孝天皇の第一皇子で、14歳のときに一度臣籍降下して源氏となっているが、35歳時に中納言となり、親王に復している。光源中納言という異称があったという。
●源光:846〜913年。仁明天皇の皇子だが、臣籍降下して源氏となる。昌泰4年(901)、菅原道真が失脚すると右大臣となっている。
三人と光源氏に共通するのは、皇子であり、異称や諱(いみな)に「光」が入っているという点だろう。逆に言えば、三人にはその程度しか「モデル」とみなせる要素がない。
ただし、玉光宮と称された敦慶親王については、こんな興味深い事実がある。
敦慶親王の父宇多天皇は、女御の温子(おんし)に仕えた女房で歌人としても知られた伊勢を寵愛し、一子をもうけた(ただし夭折)。ところがその後、宇多天皇の存命中に敦慶親王が伊勢のもとに通い、二人の間に一女が生まれている。つまり、敦慶親王は父帝の夫人(継母)に恋慕して、子をつくった。
これは、光源氏が父桐壺帝夫人の藤壺に恋慕して不義の子(冷泉帝)が生まれた構図と似ている。この類似ははたして、偶然の産物だろうか。
『河海抄』は、前出の注とは別に、全体の冒頭の中で、光源氏を「西宮左大臣」と称された源高明に擬する説も紹介している。
源高明(914〜982年)は醍醐天皇の皇子で、7歳のときに臣籍降下して源氏となる。26歳で参議となり、その後昇進を重ねて53歳で右大臣、翌年には左大臣にまで昇った。
ところが、安和2年(969)、56歳のとき、安和の変に連座し、大宰権帥(大宰府の副長官)に任じられて九州に左遷されてしまう。安和の変は、「冷泉天皇の皇太子守平(もりひら)親王(後の円融天皇)を廃位させ、同母兄為平(ためひら)親王を擁立する謀反が企てられている」という密告が源満仲らによってなされたことにはじまったもので、高明は為平親王の義父であったために関与を疑われたのである。
しかし、真相は藤原氏がライバルを排斥するために企てた陰謀だったとも言われている。高明は天禄3年(972)に赦されて京に召還されるが、その後は政界に復帰することなく没した。
一世の源氏ながら、政変に遭って左遷されたところは、スキャンダルが発覚して須磨に退去した光源氏と確かに重なるところがある。光源氏の父桐壺帝を醍醐天皇に擬する通説からしても、醍醐天皇の皇子である高明は光源氏のモデルたる資格を充分にそなえている。
また『河海抄』には、紫式部は高明と親しかったので、左遷された高明を偲んで『源氏物語』が作られた、という有名な伝説も記されている。ただし『河海抄』は、高明にはさして「好色」の噂がないとし、彼を光源氏のモデルとすることに疑問を呈してもいる。
好色という点では、美男の歌人で、恋をめぐる歌物語『伊勢物語』の主人公とされる在原業平(825〜880年)を光源氏のモデルに挙げる説が古くからある。業平もまた賜姓皇族で、平城天皇の皇子阿保(あぼ)親王の子として生まれたが、2歳のときに臣籍降下して在原氏となっている。
光源氏のモデル候補には、若くして内大臣にまで進むも、対立した叔父藤原道長との政争に敗れて九州に左遷された中関白家の藤原伊周(974〜1010年)も挙げられてきた。そしてまた、紫式部とも深い関わりがあった、『源氏物語』が成立した頃の一大権力者、道長その人をモデルに推す声もある。
もっとも、繰り返しになるが、光源氏は物語の中の架空の人物である。そのモデルを一人に限定する必要はないだろう。作者は、恋と権力闘争に翻弄されながら廟堂を行き交った男たちの姿を融合させて、光源氏という「究極の尊い皇子」とでも言うべき理想的な人物像を造形した─。そんなふうに読み解いてみてもよいのではないだろうか。
更新:11月21日 00:05