2023年08月24日 公開
松應寺の松平広忠公廟所
だが家康は、幼くして、乱世の荒波にもまれることになる。その歴史を物語るのが、松應寺だ。岡崎公園から徒歩でも、東岡崎駅からバスに乗っても10分ほど。
天文18年(1549)3月、家康の父・松平広忠が岡崎城で暗殺され、その亡骸はこの地に密かに葬られた。当時8歳で、人質として尾張の織田家のもとにあった家康は同年11月、岡崎にいったん帰り、父の墓上に松を植え、松平家の繁栄を願い託す。
それから11年後の永禄3年(1560)、桶狭間合戦後に岡崎に戻った家康は、その松が立派に成長したのを見て、「我が祈念に應ずる松なり」として、松應寺を創建した。境内奥には、広忠の墓所があり、家康の父に対する想いが伝わってくる。
ところで、桶狭間合戦ゆかりの地といえば、松平家・徳川将軍家の菩提寺としても名高い大樹寺が知られている。寺へは東岡崎駅からバスで30分ほどだ。
桶狭間合戦のおり、今川義元の討死を知った家康は、この寺に入り、先祖の墓前で自害しようとした。そこを、住職の登誉上人から「厭離穢土欣求浄土」、つまり乱世を住みよい浄土にするのが自分の役目だと諭され、思いとどまったという。これによって家康は、再起を期することになる。
しかし、話はそこで終わらなかった。というのも、家康を追う野武士一団によって、寺が囲まれたからだ。再び危機を迎えた家康だったが、この時、寺の祖洞和尚が門の貫木を使って奮戦し、敵を退けた。その後、家康の難を救った貫木は「貫木神」として寺に祀られ、現在も宝物館で拝観できる。
宝物館には、ほかにも家康の木像や松平八代と徳川歴代将軍の等身大の位牌が安置され、さらに大樹寺境内には家康の祖父・松平清康が建立した多宝塔や、家光が建立した鐘楼や三門などもあるので、松平家と徳川家の歴史をたどるうえで、欠くことのできない寺といえよう。
大樹寺
ここで少し、意外な逸話に触れたい。桶狭間合戦で運命が大きく変わった、もう一人の武士の話だ。
今川軍が敗れた時、その家臣である早川新六郎勝久は岡崎の寺へと逃れ、久右衛門と名乗る。そして寺で味噌づくりを学び、数代ののち、岡崎城から西へ八丁の位置にある八丁村で業として味噌づくりを始めた。時に正保2年(1645)のことで、やがてこの味噌は八丁味噌と称されるようになる。
カクキュー八丁味噌の味噌蔵
その味噌は、「カクキュー」の屋号で現在でも同じ場所で造られており、カクキュー八丁味噌では、味噌蔵や史料館を見学できるだけでなく、八丁味噌を使ったスイーツや料理も味わえる。
家康と同じ負け戦を体験した武士が、家康の生誕地・岡崎で、380年もつづく老舗味噌蔵を築いたと思うと、何とも感慨深い。
ゆば天味噌煮込みうどん
天恩寺の「見返りの大杉」
桶狭間合戦後、今川家から自立した家康は、一向一揆などの危機を乗り越え、永禄9年(1566)、ついに三河一国を統一する。
ときに25歳だが、この年、厄年だった家康が厄除けと開運祈願をしたのが、菅生神社だ。岡崎公園のすぐ近くで、東岡崎駅からは徒歩9分ほど。境内には、家康の祖父・松平清康が創建した開運稲荷大明神も鎮座している。
毎年8月の第一土曜に催される菅生祭では花火が打ち上げられるが、その発祥は江戸幕府が火薬の扱いを三河地方に制限し、三河で花火が発達したことによるそうだ。
三河を統一した徳川家康は、やがて遠江に勢力を拡大し、武田家との戦いに突入していく。天正3年(1575)には、長篠城を包囲した武田勝頼を迎え討つべく、岡崎城から出陣。途中、天恩寺に立ち寄って、戦勝祈願をした。
その時、寺の本尊に「家康」と呼びかけられて振り返ると、杉の陰から武田家の刺客が矢を放とうとしているところで、危うく難を逃れられた。喜んだ家康は、馬上から何度も杉をかえりみたという。
天恩寺は、岡崎公園から車で、本宿駅からバスでそれぞれ30分ほど。境内には、「見返りの大杉」がいまもそびえ、その大きさに圧倒されるだろう。緑豊かな境内には室町時代に建立された仏殿と山門や、江戸時代の石垣も残っており、思わずタイムスリップしたかのような気持ちになれる。
長篠合戦では、武田軍に大きな勝利を得た家康だが、その後も、苦難は続く。天正7年(1579)、織田信長から、正室の築山殿と嫡男・松平信康が武田勝頼に内通しているとの嫌疑をかけられる。事件の真相には諸説あるが、家康は二人を処断せざるを得なかった。
築山殿の首塚は八柱神社に、信康の首塚は若宮八幡宮に祀られており、家康の苦しい胸中が偲ばれる。2つの神社はともに、東岡崎駅からバスで20分ほどだ。
築山殿の首塚(上)と松平信康の首塚
ともあれ、家康は幾多の窮地を乗り越え、やがて天下を統一する。岡崎には、家康が大きな合戦前には必ず戦勝祈願したという伊賀八幡宮が鎮座する。東岡崎駅からバスで15分ほど、愛知環状鉄道・北岡崎駅から徒歩約10分だ。
この神社は、家康から五代遡る松平四代の親忠によって、一族の氏神として創建された。天下取りへの大一番となった関ケ原合戦や、大坂の陣に際しては、神殿が鳴動したり石鳥居が西に移動するなどの吉兆があったという。
家康はこの神社を厚く崇敬し、征夷大将軍となった後の慶長16年(1611)には本殿を造営。また、三代将軍・家光も崇敬し、家康をこの神社の相殿神として祀り、家康の築いた本殿に増築する形で、社殿を造営した。その社殿は現在も姿をとどめている。
徳川家光によって造営された 伊賀八幡宮のハス池(写真提供︰岡崎市)
家康は死後も、岡崎と強く結ばれていく。祖父・家康を尊敬する家光は、その生誕の地である岡崎を重んじ、正保3年(1646)、瀧山寺境内に、家康を祀る東照宮を建立する。この瀧山東照宮は、日光・久能山とともに、日本三東照宮に数えられている。
瀧山寺と瀧山東照宮は、東岡崎駅からバスに乗って35分ほど。寺の本堂右手に東照宮が、また本堂裏手には、家康が建立し、家光によって再建されたとされる日吉山王社が鎮座する。
瀧山寺
境内には厳かな空気が流れており、家康を祀る地として幕府から大事にされてきたことが伝わってくる。
岡崎市内の家康ゆかりの地を紹介してきたが、誕生から天下人に至るまでの紆余曲折、そして死後の顕彰のされ方までを味わえる場所は、岡崎しかない。
実際に訪ねてみれば、きっと「ありし日の家康」の姿が思い浮かんできて、新たな発見があることだろう。
瀧山東照宮
更新:11月22日 00:05