島津義弘が兄・義久の没後に、島津家の第17代当主になっていたのかどうか。これは、古くて新しいテーマである。
義弘は家督を継がず、義久から義弘の三男・忠恒 (のち家久に改名)に直接家督が譲られたというのが、多くの研究者の見解である。当時の史料から見ても、家督の証としての「御重物」は、義久から直接、忠恒にわたっている。
義久には男子がなかったため、忠恒が家督を継ぐことになった。それが可能となった要因として、義久の三女・亀寿が、忠恒の正室であったことが指摘されている。要するに、正式な家督を義久から譲られたのは、実は娘の亀寿で、忠恒は娘婿として島津家を継ぐ正統性を得たとも考えられるのだ。
他家の例でいえば、戸次 (立花)道雪の娘・誾千代が父から家督を譲られ、のちに婿の立花宗茂が家督継承したのが有名である。家督を継いだ忠恒であったが、今度は亀寿との間に男子ができなかった。
そこで亀寿は、自身の姉の孫(義久の曽孫)を夫の側室として推挙した。そして、この女性が忠恒の長男で二代藩主となる光久を産み、島津本宗家の家督に義久の血を残すことになる。
しかしながら、義久の系譜を強調しすぎると、義弘の子である忠恒の立場が悪くなる。そこで島津氏の家譜では、あくまで義弘が一度家督を継いだことにしたと推察される。このときの島津氏の相続の複雑さは、武家にとっての「家督とは何か」について、深く考えさせられる問題といえよう。
更新:11月21日 00:05