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信長6万の軍勢をも退けた雑賀孫一と鉄砲衆...秀吉・家康も恐れた「雑賀衆」の強さとは?

2022年11月14日 公開

江宮隆之(作家)

 

6万の軍が押し寄せるが...

信長は、周到に雑賀攻めを準備した。雑賀衆(五縅)のうち、孫一の息の掛かった雑賀庄と十ヶ郷を除く三縅衆(中郷・宮郷・南郷)を籠絡して織田側に寝返らせた。

同時に、根来衆の杉ノ坊とも内応の約束を取り交わした。「雑賀衆、とりわけ鈴木孫一率いる鉄炮集団を根絶やしにすることで本願寺は立ち枯れる」と読んでいたのだった。

天正5年(1577)2月、信長は6万の大軍を擁して紀州・雑賀に押し寄せた。嫡男・信忠が、尾張・美濃の軍勢を率いて雑賀・森山に陣を敷いた。続いて信雄・信孝なども瀬田や大津に着陣した。

信長の本軍は、山手方面から佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・堀秀政などが進撃する。その案内には、寝返った三縅衆や杉ノ坊が立った。

織田軍が一気に小雑賀川を渡ろうと馬を乗り入れた瞬間、轟音が響いた。先頭を行く三縅衆・杉ノ坊の手の者が次々に落馬する。これが雑賀衆の一斉射撃だと分かった時には、織田軍は川から引き返すに引き返せない状態で右往左往するばかりであった。

そこを雑賀衆は狙い撃ちにする。面白いように弾が当たる。小雑賀川は血潮に染まった。織田軍の死傷者が川に浮かぶ。一方、浜手方面からは明智光秀・細川藤孝・滝川一益らがやって来た。孫一は、本陣とした弥勒寺山砦で邀撃するつもりであった。

雑賀衆の善戦ぶりが諸国に伝わることで、一度は破綻した「信長包囲網」が復活する可能性に、孫一は賭けた。織田軍を十分に消耗させる自信もあった。結果として、信長は孫一に勝てないまま撤退した。

天正8年(1580)3月、本願寺と信長の間に本物の和議が成立した。朝廷が間に立っての和議である。孫一も矛を収めるしかなかった。

4月になって、顕如は本願寺を出て紀州・雑賀に向かった。孫一が顕如を受け入れたのだった。顕如は鷺森御坊に入った。そして、和睦後も信長への抵抗姿勢を見せていた顕如の嫡子・教如も、結局は雑賀に移る。本願寺は信長によって焼却されるのだった。

こうして雑賀孫一も絡んだ10年に及ぶ「石山合戦」は終了したが、2年後の天正10年(1682)6月2日、信長は本能寺で家臣・明智光秀に殺される。魔王・信長の死を、孫一は驚きを以て迎えたであろう。

 

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