さらに、自分の一族郎党への愛情が深い。甥が北条義時の陰謀にはめられれば減刑嘆願をしに行くし、その甥の幼い娘が父親を恋しがるあまり衰弱死すると、それがとどめとなって、義時を倒すために鎌倉幕府へ反乱を起こす。
そう、これが和田合戦(1213年)だ。この手の戦いでは、一族郎党だけの場合は、たいてい半日程度で鎮圧されてしまう。
だが、和田はなんと旧暦5月2日から3日にかけて丸一日持ちこたえた。そればかりか、鎌倉幕府の御所に火を放つことにも成功している。土壇場で一緒に北条氏を倒そうと約束していた親戚に裏切られて兵力が半減しているうえでの、この強さ。兵を指揮する能力が高い。
しかも、和田の息子達は控えめに言っても弓の名人や怪力無双、家来の中には鼎(かなえ)という金属製の三本足の釜を使って石を砕けるという、とんでもない人外もいた。最強筋肉集団を率いる、脳みそ筋肉。
朝廷と渡り合って鎌倉幕府という組織を継続していくためには、脳みそ筋肉の和田が侍所別当の座にあっては、いいように朝廷にあしらわれ、つぶされかねない。
そうならないために、義時は和田を討ち取り、侍所別当の座を得て幕府の実権を握ろうとしていた。それはわかるが、なんて連中を挑発してしまったんだ、義時。
いったい、こんな和田をどうすれば倒せるのか。それは、愛だった。陳腐な表現だが、和田は最後、愛の力によって倒されたのだ。和田合戦2日目。和田が最もかわいがっていた息子の、四男・義直が討ち死にしてしまう。
これを知った和田は、「日頃かわいがっていた義直が出世することだけを願っていたんだ。今となっては戦いも無意味だ!(年来鍾愛せしむるに依り、義直に禄を願う所なり。今に於ては、合戦に励ますも益無し)」と声を上げて悲嘆すると、そのまま戦意喪失。戦場をさ迷っているところを討ち取られてしまった。
これにより、和田軍は総崩れ。残る一族郎党のほとんどは討ち取られたり、自害したりして、和田の一族は滅亡した。
筋肉がすべてを解決する戦場から、一転して面倒くさい政治の世界に生きねばならなくなったがゆえに迎えた、和田の悲しい最期だった。複雑な政治のない縄文時代あたりに生まれていれば、天寿を全うできたかもしれないと思うと、いっそう悲劇が際立つ。
更新:11月22日 00:05