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硫黄島に救援が来なくても…「太平洋の防波堤」になった男たち

2021年08月05日 公開

半藤一利(作家)

 

それでも救援を送らない大本営

翌16日、ついに一兵の救援も送ってこなかった大本営へ、もはやこれまでと、栗林は訣別の電文を送ります。これがじつにいい文章なのですが、いささか長すぎるので、ここではいちばんいいところだけを引用します。

「……今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ 熟々皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス……」

さらにその翌17日、師団司令部洞窟内の全員はコップ一杯の酒と恩賜の煙草2本で、たがいに今生の別れを告げました。そして最後の訓示を、栗林は淡々としてのべたのです。

「たとえ草を喰み、土を齧り、野に伏すとも、断じて戦うところ、死中おのずから活あるを信じています。ことここに至っては一人百殺、これ以外にありません。本職は諸君の忠誠を信じている。私のあとに最後までつづいてください」

最後の突撃は3月26日未明に敢行されました。栗林自身も白だすきをかけ、軍刀をかざし、「進め、進め」と先頭に立って、華々しく散っていったのです。大本営が約束を破って一兵の援軍も送らなかったことにたいするうらみ言は、ついにただの一言もありませんでした。まさに"死力をつくして"という言葉どおりの奮戦力闘でした。

いまになると、事実は明らかになっています。陸軍中央部は硫黄島防衛をとうの昔に放棄して、もうこのときは視線は日本本土の防衛にのみ向けられていました。2月22日、3日間にわたる大論議ののちに「本土決戦完遂基本要綱陸軍案」を決定しました。

それは本土防衛の戦備を3月末までに31個師団に、7月末までに43個師団、8月末までに59個師団にまで拡大動員する、という無茶苦茶なものでした。参謀本部参謀次長の秦彦三郎中将が叱咤するようにいいます。

「本土決戦というのは、あらゆる手段を講じてでも、敵上陸部隊の第一波を撃砕するにある。もしこれに失敗したら、その後の計画は不可能になる。あとのことは考えない。とにかく全兵力を投入して人海戦術で、敵第一陣を完全に撃砕することだけが最重要なのである。全軍特攻である」

そのための、人柱としての150万人の大動員なのです。国民生活、生産、行政などの要因を勘案すれば、ぎりぎり4個師団(約10万)というのが、すでに決まっていた昭和20年度の動員計画でした。それを15倍にせよという要求を、参謀本部が突きつけてきたわけです。

まさしく「12、3歳の少女に子供を産めというに等しい」(『機密戦争日誌』)大動員であって、これが実行されたら日本全国に赤紙がバラまかれ、村にはほとんど年寄りと女性と子供だけという状態になってしまいます。

そんなバカげたことを考えている大本営が、硫黄島に注目すべくもなかったことは、もうあまりにも明らかでした。栗林中将の「太平洋の防波堤となる」作戦計画など、おそらく陸軍中央部がかりに知っていたとしても、「それどころじゃないのだ」と一笑に付したと思います。

負傷して動けなくなったために捕虜となった将兵は1,033人、あとは全将兵戦死という硫黄島の頑強な戦闘の意義はどこにあったのでしょうか。

 

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