2018年11月08日 公開
2022年06月07日 更新
1861年。
この年は、世界史的にもきわめて重要な年で、ドイツと同じく永い間分裂状態だったイタリアが統一を達成し「イタリア王国」が生まれた年です。
この年、プロシアではヴィルヘルム1世が即位していました。
その4年ほど前から先王(フリードリヒ・ヴィルヘルム4世)が精神を病んでしまったため、すでに事実上の国王でしたが、正式に即位したときにはすでに御歳63歳。
彼は、イタリア統一の報を耳にして、いよいよ焦りを感じます。
天下統一のためには、軍事力は必須!
だからこそ、王子時代から陸相Aアルブレヒト・ローンとともに軍事改革は進めてきましたが、議会は「統一は経済力と話し合いで!」と世迷言を叫ぶばかりで、どうしても「ヤー(はい)」と言わぬ。進退きわまったヴィルヘルム1世は、即位早々、退位まで考えるほど追い込まれていきました。
そこで陸相ローンは、ついに“切り札”を切ることを決意します。
「もはや、私のような常識人ではこの難局は乗り越えられませぬ! 常識などものともせずに打ち破って進むような“乱暴者”でないと!」
使い物にならないと思われる物も、使いようによっては役に立つこともあります。
適材適所。
欠点も使い方次第で利点となります。
振り返って、本幕の主人公、ビスマルク。
これまで見てまいりましたように、彼は一癖も二癖もあるアクの強い人物です。
先王も、「銃剣が無制限の支配をする時代にのみ採用すべき人物」と評していたほどの扱いにくい、いわば“危険人物”です。
しかしだからこそ、こんな時代に彼は適任!
まさに時代の申し子です。
当時ビスマルクは駐仏大使をしていましたが、彼を首相に任ずるべく、ただちにパリから呼び戻しました。
彼を首相に任ずることには各方面から反対の声が上がりましたが、ヴィルヘルム1世はこれをハネのけて言います。
「この危急存亡の秋(とき)にあって、背に腹は替えられん!」
国王に謁見したビスマルクは玉座の前で堂々と述べました。
──陛下の御意のままに、必ずや軍事改革を、そして天下(ドイツ)統一を実現してみせましょう!
この言葉にヴィルヘルム1世も勇気づけられます。
「よくぞ申した! ならば、余も貴下とともに戦うのが責務である。退位は撤回しよう!」
このとき、ビスマルク47歳。
これから彼は28年間にわたって祖国のために奮闘することになります。
「話し合い」は万能ではありません。
愚かな意見が大勢を占め、誤った道を突き進むことは多い。
そうした中で卓越した人物が万言を尽くして「正しい道」を説いてみたところで、衆愚がそれを理解してくれることはありません。
ただただ時間だけが無駄に浪費され、刻一刻と状況が悪化していくだけです。
ならば!
反対者の意見になど耳を傾けることなく、これを圧殺して突き進む。
ときにはこうしたことが必要になることもあります。
もちろんこれは一歩間違えれば「暴君」を生み出す“諸刃の剣”ですが、ビスマルクには確信がありました。
──全ドイツ諸邦が我が国に期待しているのは自由主義などではない! その武力である!
現下の問題(ドイツ統一)は、言論や多数決(話し合い)によってではなく、鉄と血(戦争)によってのみ決せられるのである!
所信演説で、彼はこうした自分の信ずるところをぶちまけます。
つまり、天下(ドイツ)統一のためには戦争が不可避であり、そのためには軍事改革は必須であり、そのためには大型増税もやむなしという意思表明です。
猛反発する議会を彼は解散、閉鎖に追い込み、そのまま統一事業に向かって驀進(ばくしん)していきます。
こうしたビスマルクの強引なやり方にはもちろん批判もありますが、6世紀にわたって社会に浸透した体制をひっくり返そうというのですから、時代の読めない者どもが一斉に反対するのは当然であり、「話し合い」でいちいち彼らの意見など聞いていたら改革などできるはずがありません。
こうして、議会を圧殺して軍制改革を進め始めたところに、いきなり重大な外交問題が発生します。
1863年、隣国デンマークが突如としてシュレスウィヒ・ホルシュタイン両州の併合宣言をしたのです。ここはちょうどデンマークとドイツの国境付近に位置するところで、住民はほとんどドイツ系。
統一を掲げるビスマルクにとって、必要不可欠な土地です。
ビスマルクはこれを黙って見過ごすわけにはいきません。
翌64年、ビスマルクはオーストリアと連合して最後通牒を突きつけ、開戦。
これが、シュレスウィヒ・ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)です。
デンマークを打ち破り、見事これを奪取することには成功しましたが、問題はその処理問題。
このシュレスウィヒ・ホルシュタイン両州をどうするか。
これを巡ってプロシア、オーストリアの主張は紛糾し、ついに両国の全面衝突に突入していくことになります。
当時、プロシアとオーストリアでは、その国力に大きな開きがありました。
オーストリアは当時ヨーロッパ屈指の大国でしたが、プロシアは小国です。
軍事力も経済力も人口もオーストリアのほうが上で、1対1でまともに戦って勝てる相手ではありません。
そのうえ、フランス・ナポレオン3世の動向も目が離せませんでした。
更新:11月24日 00:05