2018年04月16日 公開
2022年07月22日 更新
慶長19年(1614)4月16日、京都の方広寺の鐘が鋳造されました。そこに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という文言に徳川家康がいちゃもんをつけ、大坂冬の陣へと発展したことで有名な鐘です。
「家康の名を切り、豊臣は君として楽しんでいる」。この事件は小説などでは、家康が豊臣家を追い詰めるための「言いがかり」として描かれますし、現代の感覚からしても「いちゃもんをつけた」ようにしかみえません。しかし調べてみると、これは必ずしも全くの「言いがかり」とはいえない面もあるようです。
というのも、この文章を書いたのは南禅寺の長老で豊臣氏と繋がりが深かった文英清韓という僧で、その弁明によると、「家康」「豊臣」というのは「隠し題」であるということです。清韓は敢えて「家康」「豊臣」という名を入れて、その威光が現われることを願ったとか。つまり、いい意味で名を刻んだ、ということのようです。
しかし、この弁明に立ち会った京都五山の僧たちは、別の点で清韓を非難していました。それは、「家康」という諱を使っていることです。当時は、貴人を実名では呼ばず、例えば家康であれば「内府」など、官職で呼ぶのが常識でした。にもかかわらず、清韓は鐘銘文にこの「隠し題」に加えて「右僕射源朝臣家康公」とも刻んでおり、そこも追及されているのです(意味としては単に「右大臣源朝臣家康公」というもの)。
いずれにせよ、豊臣の威信をかけた鐘に、徳川方から突っ込まれる可能性のある文言を刻んでしまったのは、清韓の落ち度だったのかもしれません。あるいは、敢えて「隠し題」で徳川方を挑発するつもりだったのでしょうか。
結局、清韓は南禅寺を追放され、住坊も一時廃絶という憂き目に遭います。また、清韓は同じく南禅寺の僧で家康のブレーンであった金地院崇伝と政治的に対立していたようで、この事件には僧同士の争いも絡んでいたようにも思われます。
とはいえ、その後、鋳造された鐘は破壊されず現存しているところから見ても、鐘銘自体は単に「言いがかり」の要素でしかなかったと思われます。ただし、その背景には何やら豊臣と徳川の両者の見えないせめぎ合いのようなものが見え隠れします。
更新:12月12日 00:05