2018年03月31日 公開
2022年06月28日 更新
昭和19年(1944)3月31日、太平洋戦争中の「海軍乙事件」で、連合艦隊司令長官の古賀峯一が没しました。連合艦隊司令長官就任から1年も経っておらず、山本五十六に続く司令長官の不慮の死です。
古賀は明治18年(1885)、佐賀県西松浦郡有田村に生まれました。海軍兵学校は34期。大正9年(1920)から2年間と大正15年(1926)から2年間、フランスに駐在し、国際経験が豊富だったといわれます。対米英条約については協調派で、ロンドン海軍軍縮会議の折は海軍省首席副官として条約締結に尽力しました。同期の堀悌吉とは親友で、2期上の山本五十六とも親しい間柄であったようです。
古賀には酒の上での武勇伝も、艶聞の類も一切なく、非常に温厚な人柄で、主に軍政畑を歩きました。いわば海軍のエリートコースを順調に進んだといえます。太平洋戦争開戦時には、支那方面艦隊司令長官を務めていました。
昭和17年(1942)11月には、横須賀鎮守府司令長官となります。そんな古賀が急遽、連合艦隊司令長官となるのは、翌昭和18年(1843)4月21日のこと。4月18日にソロモン諸島ブーゲンビル島上空で戦死した山本五十六司令長官の後釜でした。4月25日、古賀はトラック泊地の戦艦武蔵に着任し、同艦に将旗を掲げますが、幕僚たちから戦況を詳細に聞いて、大きな衝撃を受けたといわれます。艦船、航空機、兵員の損耗が古賀の予想を遥かに上回っていたからでした。それでなくとも、真珠湾攻撃の成功などで国民的英雄となっていた山本五十六の後釜となれば、古賀にすれば甚だ「やりにくい」職務でしたが、山本時代の膨大なツケをすべて背負い込むかたちとなったのです。
着任後、2週間経って、古賀は艦隊首脳部を旗艦武蔵に招き、作戦会議を開きました。その席上で古賀は、温厚な彼には珍しく悲痛な表情で、次のような訓示を行なったといいます。
「勝算は三分もない。ここに至っては彼我の戦力差はいかんともし難く、海軍作戦に関する限り、玉砕戦法を行なって、彼に損害を与えて時を稼ぐ以外に道はない」
そして、南ソロモンやニューギニア方面の防衛にこだわることをやめ、「防衛線をマーシャル、ギルバート方面まで撤退させ、米艦隊を誘って決戦を挑む」方針を明らかにします。いわばそれまで戦線を拡大し続けた「攻め」の姿勢から、「守り」の姿勢に転じることで戦力に厚みを持たせるとともに、離島守備隊は楠木正成の千早城のように難攻不落の防禦に徹し、米艦隊が攻勢に出てきたところを、日本海海戦のバルチック艦隊邀撃を範として、洋上決戦を行なうものでした。
古賀の構想する洋上決戦を行なうには、整備された空母部隊が不可欠です。しかし空母部隊はソロモンの戦いの後に内地に引き揚げ、その再編に追われている最中でした。そしてアメリカ軍は、日本が空母部隊を整える前に猛烈な反攻を仕掛けてくるのです。
まず反攻は北方のアッツ島、キスカ島から始まり、5月29日、アッツ島守備隊は全滅しました。一方、キスカ島においては7月29日、奇跡的な全員撤収に成功し、その知らせに古賀も大いに喜んだといいます。これが、古賀時代の唯一の戦果となりました。
アメリカ軍の反攻は南方でも行なわれ、9月には日本軍の防衛圏前衛線の東端・ギルバート諸島への攻撃が始まり、マキン、タラワ両島が占拠されます。 さらに翌昭和19年1月には、アメリカ軍はマーシャル諸島を猛攻し、その防衛ラインを瞬時に突破しました。
余勢をかったアメリカ軍は、日本軍の要衝・トラックを空襲します。マーシャル失陥に伴い、トラックが敵の空襲圏に入ったことで、古賀は水上部隊をパラオ方面に移していました。このため艦隊主力は被害を免れますが、間もなくパラオも空襲圏内となります。やむなく古賀は、旗艦武蔵をパラオから避退させ、自らは連合艦隊司令部首脳とともに、フィリピンのミンダナオ島ダバオへ移動することとします。
そして3月31日夜、古賀は福留繁参謀長以下とともに、2機の二式飛行艇に分乗して出発、ダバオに向かいますが、古賀を乗せた一番機が消息を絶ちました。また二番機もフィリピン諸島の中部で不時着、福留以下少数の生存者以外、全員が死亡したと判定されるのです。
原因は、急速に発達した低気圧に遭遇しての墜落事故であったと考えられています。このため古賀は、戦死ではなく殉職として扱われることになりました。享年59。 苦しい戦いの中での不運な事故に、古賀の無念はいかばかりであったでしょうか。
更新:12月10日 00:05