2018年01月01日 公開
2022年08月09日 更新
文政3年1月1日(1820年2月14日)、清水次郎長が生まれました。幕末の侠客で、「海道一の大親分」として小説、時代劇、浪曲などでもおなじみです。もっとも最近は、架空の人物と思っている人も増えてきているようです。
「旅行けば駿河の国に茶の香り…」。 広沢虎造の浪曲でよく知られる清水の次郎長…といっても、浪曲自体をあまり耳にしなくなった昨今、次郎長の名前も特に若い人には馴染みがうすくなっているのは、時代の趨勢というものでしょう。
次郎長の生涯が知られ、庶民のヒーローとなったのは、『東海遊侠伝』(明治17年出版)の存在が絶大でした。同書は元磐城藩士の天田五郎(愚庵)が、次郎長のもとに身を寄せていた時に、聞き書きしたノンフィクションです。次郎長の原型はここにあり、後にさまざまに脚色されていきました。
次郎長は本名を山本長五郎。文政3年に駿河国清水の持船船頭・高木三右衛門の次男に生まれました。三右衛門は「雲見ずの三右衛門」の異名を持ち、雲行きなど気にしない剛胆な男であったといわれます。次郎長はそんな父親の気質を色濃く受け継ぎました。生まれてすぐ米穀商を営む叔父・山本次郎八の養子となります。ところが成長するにつれて暴れ者のガキ大将となり、近所の子供から「次郎八の子の長五郎」を縮めて「次郎長」と呼ばれ、怖れられました。このあだ名が、生涯の呼び名となります。悪さだけは一人前の次郎長でしたが、天保10年(1839)に旅の僧に人相を見られて、「25歳まで生きられない」と言われたことから、ならば太く短く生きてやろうと博徒の道に入るのが20歳の時。以後、喧嘩三昧の日々を送ります。
次郎長が名をあげて一家をなすようになるのは、和田島の太左衛門と津向(つむぎ)の文吉の対決を庵原川で仲裁してからでした。弘化4年(1847)、28歳でおちょうと結婚し、清水港仲町妙慶寺門前に世帯を持ちます。当時の子分は10人ほどで、家計は火の車。 夏に次郎長一家には蚊帳が一つしかありません。おちょうが嫁入りの時に持参したものですが、次郎長はそれを使ってはならないと厳命します。
「家の中は皆平等だ。俺たちだって皆と一緒に蚊に食われようじゃないか」
その代わりに、次郎長は子分に妙慶寺境内の杉の小枝を折ってこさせ、七輪に載せて蚊燻(かいぶ)しにします。おかげで、一夏で寺の杉は丸坊主になってしまったとか。
安政5年(1858)、次郎長がかつて助けた保下田の久六に裏切られ、翌年、乙川の喧嘩で久六を討ちます。万延元年(1860)、久六斬りの祈願成就のお礼参りに、子分の森の石松を金毘羅に代参させると、その帰途、石松は都田の吉兵衛3兄弟の騙し討ちに遭いました。次郎長は石松の仇を討って、さらに勢力を広げます。
そんな次郎長の前に立ちはだかったのが、甲斐の博徒・黒駒の勝蔵。次郎長はこれに「28人衆」と呼ばれる子分たちとともに立ち向かい、とりわけ慶応2年(1866)の荒神山の決闘は、日本一の大喧嘩として知られました。 28人衆という呼び名は後世の創作ですが、子分として『東海遊侠伝』に記される男たちはほとんどが実在します。たとえば大政(後の次郎長の後継者・原田政五郎)、小政(吉川冬吉)、森の石松、桶屋の鬼吉、関東の綱五郎、法印の大五郎、辻の勝五郎などなど。
慶応4年(1868)3月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍が進軍してくると、街道警固役に任じられます。やがて旧幕府軍の脱走艦隊のうち、咸臨丸が暴風雨に遭って清水港に寄港したところを、新政府軍によって乗組員が全員討たれました。新政府軍は旧幕兵の遺体の埋葬を許しませんでしたが、次郎長は「死んだら仏だ。官軍も賊軍もない」とこれを手厚く埋葬します。これを知った元幕臣で静岡県大参事の山岡鉄舟は次郎長に感謝し、以後、次郎長は博打をやめ、山岡や榎本武揚と交際するようになりました。
その後、次郎長は実業家として活躍し、清水港の改修工事、開墾、私塾における英語教育に尽力したといいます。明治26年(1893)、没。
更新:11月25日 00:05