2017年09月18日 公開
2018年08月28日 更新
永正4年9月18日(1507年10月23日)、曲直瀬道三が生まれました。戦国時代の医者で「医聖」と称されることもあります。
永正4年、道三は近江源氏佐々木氏の堀部親真の子として京都に生まれます。実名は盛正、または正慶とも。幼少の頃に両親を亡くして伯母と姉に養われ、13歳の時に相国寺に入り、仏門修行の道を歩みました。生来の学問好きで、いくつかの経巻を暗記するだけでなく、漢や唐の詩集に親しみ、さらに算術、博物の分野にまで関心を広げます。
享禄元年(1528)、22歳の時に寺を出て、関東に下り、下野国足利学校に入学。諸子百家の書物に接しますが、ある日、学校を訪れた導道練師と名乗る人物の講演を聴き、感動を覚えました。その導道は明からもたらされた最新の李朱医学(漢方医学)を紹介し、日本旧来の医方からの脱皮を説いたのです。この導道こそは「医聖」と呼ばれる田代三喜で、足利学校の卒業生でした。彼は12年に及ぶ明国留学を終えて帰国、年齢はすでに60歳を超えていましたが、古河公方の庇護を受けて下総古河に居を構え、李朱医学の普及に努めていたのです。
三喜との出会いで道三は医学を志し、古河の三喜に入門しました。時に享禄4年(1531)、25歳のことです。三喜は道三をよき後継者として、明で学んだ医術の奥義を伝授。三喜は亡くなる少し前まで、口述で道三に語り伝えたといわれます。
天文15年(1546)、三喜より李朱医学を会得した道三は十数年ぶりに京都に帰りました。そして還俗し、医者としての活動を始めます。三喜直伝の李朱医学と腕の確かさはすぐに京都中に知れわたり、将軍足利義輝に召し出されると、細川晴元、三好長慶、松永久秀ら幕府重臣の診察も行ない、その治療効果に皆が驚きました。道三が京都に啓迪院(けいてきいん)という医学生養成の学校を設立する折には、幕臣たちが巨費の資金援助をしています。
道三は学校で後進を育てる傍ら、師の三喜を見習って、各地に出向いては李朱医学の普及にも努めました。永禄9年(1566)、60歳の時には、出雲を攻めていて陣中で病を得た毛利元就を診察しています。さらに古来内外の医書を精力的に集め、内容の調査に尽力し、医方秘典を集成した成果を「啓迪集」8巻にまとめて、天正2年(1574)、正親町天皇に献上、大いに嘉賞されました。織田信長の診察も行ない、信長から褒美として蘭奢待を与えられています。
晩年の道三は皇族、豊臣秀吉とその一族、徳川家康とその一族、蒲生氏郷らの診察や治療にあたり、天正12年(1584)には豊後府内で宣教師のオルガンティノを診察したことをきっかけに、洗礼を受けました。文禄3年(1594)、没。享年88。 その後、曲直瀬家は子の玄朔(げんさく)が継承し、徳川政権下では世襲の侍医典薬を務めることになります。江戸城の和田倉門近くに邸宅が構えられ、その近くの堀は「道三堀」と呼ばれて、明治43年(1910)まで残っていました。
更新:11月23日 00:05