文禄3年8月24日(1594年10月8日)、石川五右衛門が京都三条河原で処刑されました。安土桃山時代の大盗賊としておなじみです。
一般に知られる石川五右衛門は、主に『絵本太閤記』などで描かれたものでしょう。河内国(異説あり)の出身で臨寛という異人から忍びの術を学びます。そして伊賀の郷士・百地三太夫(丹波)に仕えますが、三太夫の妾と情を通じて、金を奪って逃げました。その後、京に上って、忍術を用いて大盗賊となり、やがて豊臣秀吉の命を狙うというものです。さらに伝説では、豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼された五右衛門は、秀吉の寝室に忍び込みますが、千鳥の香炉が鳴いたため気づかれ、捕らわれたとされます。もちろんこれらは伝説や物語に過ぎませんが、五右衛門が実在し、釜煎りの刑に処されたことは、イエズス会の宣教師の日記などに記されています。
スペインの商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』には、「盗賊の首領たちが生きたまま、油で煮られた」という記事があり、さらにこれに対するイエズス会のパードレ・モレホンの註記には次のようにあります。
「これは1594年(文禄3)の夏のことである。油で煮られたのはほかでもなく、石川五右衛門とその家族9人か10人であった。かれらは兵士のようないでたちをしていて、10人か20人が磔になった」
石川五右衛門の名が、宣教師たちにまで知られていたことが窺えるでしょう。 また林羅山編纂の『豊臣秀吉譜』には、文禄の頃、石川五右衛門という盗賊が、強盗・追いはぎなどを働いたので、秀吉が京都所司代に命じて捕らえさせ、その母親と同類20余人とともに、三条河原で烹殺にしたとあります。
記録は極めて少ない石川五右衛門ですが、秀吉の時代に世に知られた盗賊であったことは、間違いありません。 しかも、釜煎りという、あまり例のない極刑に処されているところをみると、秀吉の憎悪と、民衆の前で派手に処刑することで、盗賊どもも太閤の威光の前には悲惨な結末になるという、秀吉好みのショー的なパフォーマンスであったことを感じます。裏を返せば、それだけ五右衛門の存在が、秀吉にとって無視できないものであったということでしょう。あるいは伊賀の流れをくむ忍びであったというのは、本当なのかもしれません。
忍びの術とは、それを情報収集や敵の攪乱に用いればまさに忍びの術ですが、物品財宝を奪う事に用いれば、偸盗(ちゅうとう)術に一変します。秀吉は盗賊・五右衛門の優れた忍びの術に脅威を感じたのかもしれず、もしかしたら秀吉の寝所に忍び込むということも、実際にあったのかもしれないと想像してしまいます。かつてNHK大河ドラマ「黄金の日々」で根津甚八さんが演じた五右衛門が、秀吉暗殺に向かう場面が印象に残っている年配の方も多いのではないでしょうか。
更新:11月22日 00:05