2017年07月22日 公開
2019年07月02日 更新
慶安4年7月23日(1651年9月7日)、慶安の変が起こりました。由井正雪らによる幕府転覆計画の発覚で、由井正雪の乱ともいいます。
3代将軍家光の世。すでに合戦は絶え、徳川幕府が諸大名に睨みを利かせる中、減封や改易によって多くの牢人が生じ、彼らには再仕官の望みもほとんどなかったため、幕府の政道に対する批判の声は高まっていました。そうした牢人たちの支持を集めたのが、軍学者の由井正雪です。彼が神田連雀町に構えた楠木流の軍学塾「張孔堂」(古代中国の張良、諸葛孔明から名前をとっているとか)には、3000人もの門弟が集まり、中には旗本や大名家の子弟も少なくなかったといわれます。
慶安4年4月に将軍家光が没すると、4代将軍家綱はまだ11歳と幼く、これを好機とみた正雪は、幕府転覆、牢人救済を掲げて立ち上がりました。その計画は、宝蔵院流槍術の遣い手である丸橋忠弥が牢人を率いて江戸を焼打ちし、これを鎮めるために江戸城から派遣される幕府高官や旗本を討ち取る。それと同時に京都で由井正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、混乱に乗じて天皇に動座頂き、倒幕の勅命を得て、幕府に味方する者を朝敵として、天下に決起を呼びかけるというものであったといいます。
しかし、計画としてはかなり杜撰なものといわざるを得ません。それでも正雪は、成算はあると考えていたらしく、7月22日に上方に向けて出立。一味に加わっていた奥村八左衛門が幕府に密告したのは、その翌日のことでした。23日、丸橋忠弥は幕府の手の者によって即日捕縛されます。正雪は密告も忠弥の捕縛も知らぬまま、東海道を西に進み、25日には駿府に到着。梅屋町の町年寄邸に宿泊したところ、翌早朝に駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれて露見を悟り、自決しました。その後、正雪の死を知った大坂の金井半兵衛も自害し、慶安の変は挙兵未遂で幕を閉じたのです。江戸で捕えられた丸橋忠弥は磔刑に処されますが、一説に彼は大坂夏の陣後に死んだ長宗我部盛親の子であるともいわれます。
慶安の変が未遂に終わった背景には、幕閣、特に知恵伊豆こと松平伊豆守信綱や、堀田正盛らによる周到な調査と準備がありました。かねてから正雪が、不満を抱く牢人たちの人気を集めていることを察知し、塾の張孔堂に多数の密偵を潜入させていたのです。このため正雪らの動きは逐一、幕府に把握されていました。
またこの変には、紀州藩主・徳川頼宣の関与も疑われました。正雪が所持していたとされる頼宣の書状は偽物であるとして、不問に付されはしたものの、松平信綱らはこれを機に、常々幕政に批判的であった徳川頼宣を失脚させることに成功するのです。少々飛躍して考えれば、実は松平信綱の真の狙いは幕政に批判的な徳川頼宣の追い落としにこそあり、頼宣が正雪とつながっている事実をつかんだ上で、正雪を挙兵まで泳がせておいて、その上で頼宣に脅しをかけて失脚させたということはないのでしょうか。
山田風太郎の『魔界転生』にも、似たような話があった記憶があります
更新:11月22日 00:05