2016年01月31日 公開
2023年03月09日 更新
甲州征伐が終わり、諏訪法華寺で論功行賞が行なわれた祝賀の席で、明智光秀が祝いの言葉として、「これまで我らも骨を折ったかいがございました」と言ったところ、「おのれは何の功があったか」と信長が激昂し、衆人の前で光秀の頭を欄干に打ち据えて、折檻した…。
ドラマなどではよく描かれるシーンで、大河ドラマでもその場を信繁が目撃することになっていました。
これは『祖父物語(朝日物語)』や『川角太閤記』に見られる逸話で、この時の恨みが、本能寺の変を引き起こす原因の一つであったと、これまでよく語られてきました。
しかし、『祖父物語』や『川角太閤記』の性格から、今ではその信憑性にかなり疑問を持たれています。
では、信長は光秀を折檻しなかったのかといえば、そうでもないようです。甲州征伐の後、本能寺の変の直前になりますが、こんな記録があります。
「彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである」(フロイス『日本史』)
「信長は光秀が法に背いたのに怒って呼びつけると、譴責して自ら光秀の頭を二度、三度、叩いた。光秀は髪が薄かったので、いつでも付け髪を用いていたが、このときそれが打ち落とされたので、光秀は信長の仕打ちを深く恨んだ。謀叛の原因はここから起こった」(『稲葉家譜』)
信長の折檻が本能寺の変の直接の原因かどうかはわかりませんが、光秀にすれば一因にはなったでしょう。諏訪の折檻の真偽はともかく、光秀が何度か信長より屈辱を味わわされたことがあったのは事実のようです。
いずれにせよ、本能寺の変で信長が横死したことによって、真田一族の運命も大きく変わっていくことになります(辰)
更新:11月21日 00:05