2015年08月27日 公開
2019年01月23日 更新
明軍を率いる李如松は、1月24日に開城に入ります。日本軍の抵抗は皆無で、また副総兵の査大受率いる斥候が、日本軍の物見を破った報告を受けたことで、李は敵を侮りました。明軍は大きく2つの部隊で構成されています。北方の女真族との戦いで武功をあげた李直属の騎兵部隊と、南方の宋応昌率いる重火器部隊でした。そして平壌攻城戦で活躍したのが宋の重火器部隊であったことから、李は次の漢城攻略は、子飼いの騎兵部隊に手柄を立てさせたいと考えます。そこで25日未明、李は重火器部隊に後続を命じると、騎兵部隊を率いて先発しました。
一方、24日に味方の物見が敗走し、敵の接近を察知した立花宗茂は、25日に漢城を出立。高橋統増を含めて3千の兵力でした。丑の刻(午前2時頃)、立花隊の物見が敵の伏兵を追い立てると、宗茂は漢城に宛てて敵が迫っていると急報し、さらに前進します。
立花隊と明軍が衝突したのは、26日の卯の刻(午前6時頃)。漢城の北西約20キロメートル、およそ5キロの回廊状の溪谷が続く碧蹄館でした。漢城と開城を結ぶ街道の要所で、中国と朝鮮を往来する使節の館があったといわれます。まず立花隊の十時伝右衛門ら5百余人が敵の騎兵2千と衝突、十時らは奮戦の末に敵を破り、追撃しますが、新手の7千が駆けつけると苦戦に陥り、十時以下百余人が討死しました。これを見た宗茂は、本隊を率いて打ち掛かります。
「宗茂兄弟二千餘騎一度に駈付其間三町計り隔て鬨をドットあげ、左の方より横鑓に掛るを見て、敵一度に崩れて引退く。宗茂八百餘騎堅固に備へて、残る勢に追討にうたせらる。敵を討事二千餘人」(『天野源右衛門朝鮮軍物語』〈柳川藩叢書第一集所収〉)。
宗茂は、明軍を大いに破りました。しかし敵は次々に新手を繰り出し、立花隊は熾烈な戦いを続けます。そこへ巳の刻(午前10時頃)、小早川隆景隊が到着し、碧蹄館の戦いはクライマックスを迎えました。以後の戦闘の詳細は別稿に譲りますが、私が注目したいのは、碧蹄館という狭隘の地で戦っている点です。これは決して偶然ではないでしょう。
碧蹄館の戦いでの明・朝鮮連合軍の実数は諸説ありますが、日本軍よりは多かったはずです。少なくとも緒戦は立花隊の3千のみですから、数倍の敵を相手にしていました。寡兵で大敵と戦う場合、包囲されないことが鉄則です。そのためには狭隘の地などに敵を誘い込んで、軍勢を展開できぬようにし、数の優位を封じることが有効でした。おそらく宗茂ら日本軍は事前に開城から漢城に至る街道を調べ上げ、碧蹄館付近が大敵を迎撃するのに最適と知っていたのでしょう。こうした戦法は、山地の多い日本で戦いを重ねてきた戦国武将たちには、手慣れたものです。一方、北方の女真族を相手に、広大な平原を騎兵で戦ってきた李如松ら明軍は、この種の戦いに不慣れでした。朝鮮の柳成龍が著した『懲毖録』には、次のような記述があります。
「後方に匿れていた賊が、山の背後から不意に山に上った。その数はほぼ1万余であった。明国兵はこれをながめて心中恐れおののいたものの、時すでに刃を接しており、どうすることもできなかった」
さらに道は険しい上、前夜の雨でぬかるみ、明軍の騎兵は進退がままならず、日本軍に討たれてしまったという記録もあります。
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器無く、路険しく泥深く馳騁する能はず。賊長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵無し」(『宣祖修正実録』)
日本軍は自軍に有利な地に敵を誘い込み、得意の戦法で敵を見事に痛撃していたのです。
碧蹄館の勝利は、攻勢に転じた明・朝鮮連合軍を手痛く叩き、李如松の戦意を著しく阻喪させ、文禄の役を講和へと導いた点で大きな意味がありました。もし碧蹄館で敗れていたら、嵩にかかった明・朝鮮軍に追われて、日本軍は壊滅の危機に瀕したかもしれず、講和も覚束なくなったことでしょう。そうした点で碧蹄館の勝利が、文禄の役の明暗を分けたといっても過言ではないのかもしれません。
またその勝利を呼んだのは、窮地に追い詰められた日本軍の中に初めて芽生えた、「日本武士として恥ずべき戦はしない」というオールジャパンの意識と誇り、そして国内の戦乱で磨き上げられた武将としての能力の高さと勘の冴えにあったことは間違いありません。
戦国史の中でこれまであまり語られてこなかった碧蹄館の戦いですが、立花宗茂、小早川隆景はじめ錚々たる面々が漢城に顔を揃え、敵の大軍を迎撃する決断を下し、激闘の末に見事に勝利してのけた事実を、私たちは知っておいてもよいのではないでしょうか。
更新:11月22日 00:05