2014年11月27日 公開
2022年11月14日 更新
今回のテーマは「日本史上で最もすごい奇人は?」でしたが、一言で「奇人」といっても、そこから思い描かれる人物像はさまざま。非常な才能を持っている、先見の明にすぐれている、といった凡人にはない「奇才」に恵まれた人物を挙げて下さった方もいらっしゃれば、あまりに言動が不可解で奇怪な人物、に辛辣なコメントを寄せて下さった方も。それが、今回1位を除いて非常に細かく票が割れた理由のひとつかもしれません。
では、早速ご紹介しましょう。
第1位 織田信長 24.9%
第2位 平賀源内 5.9%
第3位 坂本龍馬 5.1%
第4位 豊臣秀吉 4.5%
第5位 南方熊楠 4.1%
第6位 聖徳太子 3.1%
第7位 伊能忠敬 2.5%
第8位 徳川家康 2.3%
第9位 卑弥呼 2.1%
第10位 吉田松陰 1.5%
圧倒的差をつけて、1位の座についたのは「うつけ者」の権化(?)、織田信長でした。果たしてこれは栄誉なのか不名誉なのか……。コメントも真二つに分かれました。彼を肯定的に捉える意見の多くは、「中世の価値観を壊した人だから」(50代、女性)、「社会基盤、戦術、文化などすべての面において革新的な発想を持っていた」(40代、男性)など、因習に囚われない自由な精神を評価するものでした。
一方で、その常軌を逸した奔放さに恐怖を感じる、という否定的なご意見も。「比叡山焼き討ちなど正気の沙汰ではない」(20代、男性)、「人間の内面にある残忍な一面を見せつけていると思います。愚かな奇人として名をあげたい」(60代)。
ただ、興味深かったのは、そんな冷酷な側面も持つ信長が、今回一番女性票を集めていたこと。中には、「異常なほどの勝利への執着心や残忍さにぞっとするけど魅力を感じた」(30代、女性)という声もあり、良くも悪くも(女心にも訴える?)カリスマとしての評価を再認させられました。
信長には水をあけられたものの、堂々2位に君臨したのは江戸のダヴィンチ、平賀源内。「エレキテルは、よく知られているし、当時を鑑みると、正に発明王に相応しいと思います」(50代、男性)。他にも、夏場に鰻を拡売するために「土用の丑の日」というキャンペーンを張って成功させたあたり、「広告の効果を実感していた」(50代、男性)。そんな多芸多才な「表の顔と、最晩年に猟奇的とも伝わる殺人を犯した裏の顔を考えると間違いなく『奇人』」(40代、女性)と悲劇的な最期に言及する声もありました。
3位の坂本龍馬に対しては、「これだけ時代を動かしている人は他にはいないと思う」(30代、女性)、とひたすら称賛の声があがっています。確かに、「脱藩者の田舎侍もどきが、幕末の日本を動かした。相当の奇人でないと無理であろう」(50代、男性)というように、その出自にもかかわらず動乱期の日本を導いた手腕と熱意は、偉人を超えてもはや奇人、かもしれません。
4位の豊臣秀吉については、「百姓から関白まで上り詰めたこと。晩年のさまざまな奇行。中国進出までもくろんだ野心。人生そのものが規格外」(40代、男性)。彼の成り上がりストーリーに憧れるという声がある一方で、その残虐さには辟易するというご意見も。
5位は博覧強記の生物学者、南方熊楠。今回ランクインした人物の中で最もたくさんの奇行エピソードが寄せられましたが、「陛下に標本を献上するのにその標本箱がキャラメル函たった」(男性)という逸話は何度きいてもくすっとしてしまいます。
6位以下の結果は表の通りです。奇人らしい個性的な面々が並びましたが、個人的に一番納得したのは「リタイアしてからここまで趣味を楽しめたら凄いと感じたので」という伊能忠敬へのコメント。まったくです……。
この他、惜しくもトップ10からは外れてしまった奇人たちについても面白いご意見を多数頂戴しました。
◇岡本太郎「芸術が本当に爆発していた」(50代、男性)◇一休宗純「禅宗の最高位の高僧でありながら数々の奇行を行ない、それでいてその生き方は民衆に愛され、強い共感を得たということが理由です」(60代、男性)◇野口英世「研究にはものすごい情熱をかけるが、それ以外のことがまったくだめって言うギャップがすごいです」(30代、男性)◇新島襄「キリスト教の学校を御所の目の前に作るうという発想が凄いと思います」(40代、男性)
今月も多彩なご意見、誠にありがとうございました!
さて、以上、第16回の結果発表でした。いかがですか。
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第17回「あなたが好きだった歴代大河ドラマは?」のランキング結果は、『歴史街道』2015年1月号(12月6日発売/[総力特集]戦艦大和反転の謎)誌上で発表しています。
定番か、波乱か? こちらもぜひご覧ください。
<掲載誌紹介>
<読みどころ>「惣構から離れて出丸を築くとは、呆れたの。落としてくれといわんばかりじゃ」。
大坂城南東隅の平野口に築かれた真紅の旗指物が林立する砦に、徳川方の兵らは嗤(わら)いました。真田信繁が拠る「真田丸」です。慶長19年(1614)12月4日、真田方の挑発にいきりたち、我先にと真田丸へ殺到した徳川勢、およそ2万。しかし、それが信繁の計略でした。押し寄せた軍勢を凄まじい数の銃撃が見舞い、怯んだところに投石が、さらに足を止めたところを騎馬隊が襲います。信繁の変幻自在の采配に、徳川勢は翻弄されるばかり……。最新研究で見えてきた、通説を覆す真田丸の実際と、「真田幸村」の名で親しまれる信繁が胸に抱いていた、「真田の誇り」に迫ります。
第二特集は「Q&A 日本陸海軍戦闘機」です。
更新:11月23日 00:05