2024年12月18日 公開
金ケ崎城址
難しい立場に立たされたとき、一か八かの決断を迫られたとき、 存亡をかけた局面に置かれたとき......、きらりと光る能力を発揮し、 見事に苦境を打開した戦国武将がいた。今回は、朝倉宗滴をご紹介しよう。
朝倉宗滴は、名将と言われ、越前国の守護大名となった朝倉孝景(七代目)の八男坊で、教景と名乗った(「宗滴」は法号)。
彼は一時朝倉家の後継者候補と目されていたことがあるのだが、実際に朝倉家の当主となったのは、異母兄の氏景だったため、微妙な立場となる。
現代でも、企業で出世を争った者同士が、かたや上司となり、かたや部下となったりすると、なんともお互いに気まずく、部下になった方が他の部署なり、支社なりに異動させられたりするものだが、宗滴はその点、実にうまく身を処した。その秘訣こそが、「情報力」なのだ。
文亀3年(1503)に朝倉一族の敦賀城主・景豊は、氏景の跡を継いでいた九代貞景(宗滴の甥にあたる)への謀反を企んだ。
これに宗滴の庶腹の兄・景総も同調しただけでなく、宗滴にも誘いの手が伸びた。いや、かつては当主候補でもあった宗滴だけに、景豊や景総はむしろ宗滴を盟主に担いで、クーデターの中心人物にする腹づもりだっただろう。そして宗滴も一旦この誘いに応じる。
しかし計画段階で心変わりすると、貞景に「景豊・景総らに叛意あり」と密告したのだからたまらない。まだ挙兵の準備が整っていなかった景豊は、貞景が派遣した大軍に城を包囲されて切腹に追い込まれ、景総は逃亡した。
実は、宗滴は景豊らの計画について情報を収集分析し、「思ったよりも貞景の支持基盤は厚く、景豊らに味方する者の数が少ない」とその失敗を見越したのだ。
自分の情報力と予想を信じ、妻の兄である景豊を裏切ることを躊躇なく決断した宗滴は、貞景の信頼を得て金ケ崎城を与えられ、敦賀郡司となる。
その後の宗滴は、鷹狩りと称して各地の情報収集に励む。孫子の兵法には「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」とあるが、宗滴はそれを実行したのだ。
そして朝倉家の軍奉行に任じられた宗滴は、享禄4年(1531)、一向一揆の鎮圧のため、加賀に攻め込んだ。勝利を収め、味方の能登畠山軍の到着を待っていると、遠くに煙がのぼり始める。
部下たちは皆「それ、畠山軍が焼き討ちしながら来るわ」と言い合ったが、宗滴は煙を眺めて「いや、畠山軍ならばこちらに近づきながら火をかけるわけだから、煙もこちらに近づきながら次々とのぼらなければおかしい。あの煙は向こうに遠のいていくから、畠山軍が負けたに違いない」と兵を退かせた。
あとで宗滴の推測通り、畠山軍が一揆勢によって潰滅したという報せが届いたが、陣で守りを固めていた宗滴の軍勢はまったく損害を受けることもなく、無事越前に帰国したという(『賀越闘諍記』)。一揆勢の動き、畠山軍の動き、双方の戦闘力、地理などの情報をすべて頭に入れていなければこうはいかない。情報を駆使したスマートな行動は流石だ。
その後も宗滴は情報力を発揮し続けた。諸国の大名の動静を詳しく観察し、中でも新進気鋭の織田信長に注目。死の床でも「あと3年生きて信長の行く末を見たかった」と語っている。のちに信長が朝倉家を滅ぼすことを、その情報力で予感していたのだろうか。
更新:12月28日 00:05