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源氏物語は武将にも人気だった? 紫式部が暮らした「福井県に残る面影」

2024年02月16日 公開

歴史街道編集部

紫式部公園の紫式部像
↑紫式部公園の紫式部像

紫式部というと、平安京で暮らしたイメージが強い。しかし実は、京を出て暮らした土地があった。越前国、現在の福井県である。その地で紫式部は何を見て、何を感じたのか。ゆかりの地を編集部が訪ねると、紫式部に思いを馳せられるだけでなく、『源氏物語』にまつわる戦国武将や絵師にも出合えるのだった──。

 

国司となった父とともに越前へ

紫式部と越前には、ゆかりがある──初めて知ったときは正直、驚いた。当時、京に住む女性が都を離れて暮らすというのは、珍しいと思ったからだ。紫式部は父・藤原為時が国司として赴任するのに同行し、一年ほど越前、つまり現在の福井県で暮らしたという。

どんな想いで越前に向かい、どんな歳月を過ごしたのか。その経験が、その後の執筆活動にどう影響したのか......。様々な疑問を胸に、福井県へと向かった。

そもそも、紫式部の父が任じられた国司とは、どういった存在なのか。福井県立歴史博物館の文化財調査員・酒井健治さんによると、国司は天皇から任命、諸国に派遣され、国府で国内の行政・司法・警察などの権限をもって職務を遂行していたという。

その仕事は、公文書の作成や農業の振興、神社の維持管理、治安維持など多岐にわたり、なにより都に納める税の徴収などが重要な任務であったそうだ。

また、紫式部が入った頃の越前は、北陸地方の諸国から都に運ばれる物品を陸揚げする敦賀津を擁し、海上と陸上交通の要衝であったという。

長徳2年(996)、父とともに越前に向かった紫式部は、道中で詠んだ和歌を残している。その道筋については、諸説あるが、今回は和歌を参考にしつつ、塩津山から越前に入り、敦賀、鹿蒜山をへて武生に入るという陸路ルートを念頭に置きながら、紫式部のゆかりの地をめぐってみた。

 

越前下向の途中で訪れた地

氣比神宮の大鳥居↑氣比神宮の大鳥居

編集部がまず訪ねたのは、氣比神宮だ。JR敦賀駅より徒歩15分ほどのところに鎮座する。

紫式部が氣比神宮を訪ねたとする記録は残されていない。だが、氣比神宮は越前国の一之宮であるため、越前入りに際して父とともに参拝したのではないだろうか。

氣比神宮につくと、正保2年(1645)に建立された、高さ10.9メートルの大鳥居が迎えてくれる。日本三大鳥居のひとつで、国の重要文化財にも指定されている。初代の鳥居は弘仁元年(810)に創建されたものの、康永2年(1343)に暴風で倒壊してしまったという。

境内を進むと、左手から水の流れる音がする。

大宝2年(702)に社殿を修営した際、突然、地下水が噴出したもので、1300年以上にわたり、「長命水」の名で親しまれているという。紫式部ももしかしたらこの水に触れたかも......そんな想像を膨らませながら本殿へと進む。

長命水
↑氣比神宮を流れる「長命水」

古くより海上交通、農漁業、衣食住の生活全般を護る神として、伊奢沙別命が祀られており、今回の旅の無事を祈願した。

続いて向かったのは、日本三大松原に数えられる気比の松原だ。氣比神宮からは、バスで10分ほどの場所にある。

気比の松原
↑気比の松原

気比の松原は『万葉集』にも詠まれており、当然、紫式部も景勝地として知っていただろう。実際に松原を訪ねてみると、海の青と松の緑のコントラストが美しい。

紫式部も道中で立ち寄って、この景色を目にしたのだろうか。もしそうだとしたら、京では見ることのできない海に、何を思ったのだろうか──。

ところで当時、この松原近くには、宋人70名余りが滞在していた客館もあったという。紫式部の父・為時は、彼らと折衝する役割も担っていたとされる。紫式部はそんな父から、大陸にまつわる話を耳にする機会もあったかもしれない。

続いて向かったのは、JR南今庄駅から徒歩12分ほどのところに鎮座する鹿蒜神社だ。

鹿蒜神社 ↑鹿蒜神社

紫式部が越前に下向した頃には、敦賀から越前国府までの道筋として、山中峠越えと木ノ芽峠越えの2つがあったと考えられ、そのどちらも、「帰」(現在の南越前町帰)周辺を通ることとなる。

そして帰の集落にあったのが、鹿蒜神社とされる。紫式部が参拝したかいなかは定かでないが、紫式部は「帰る山(山中峠も木ノ芽峠も含み南条山塊全体を指す言葉)」に関する歌を詠んでおり、ゆかりを感じさせる。

神社の鳥居をくぐって境内を進むと、拝殿が現われる。拝殿の横に掲げられた「鹿蒜神社由緒」によると、文武2年(698)に創建され、平安時代、醍醐天皇の勅命により編纂された延喜式神名帳にもその名が記されているそうだ。

地元の方によると、拝殿の後方にさらに本殿があるとのこと。拝殿の裏手にまわり、急な石階段を登っていくと、本殿が姿を見せた。平安時代も同じ配置であったかどうかはわからないが、拝殿も本殿も古式ゆかしいたたずまいで、1300年の歴史をもつ神社ならではの風情が感じられた。

 

越前国府はどこにあったのか

總社大神宮
↑總社大神宮

次に向かったのは、越前市の總社大神宮だ。JR武生駅より徒歩で8分ほどのところに鎮座する。宮司の糟谷直毅さんによると、總社大神宮は天平11年(739)に越前国の総社として創建されたという。

大化の改新後、越前に国府が置かれた際、越前国内の神社の管理・祭礼は国司の任務となり、国司は必要に応じて越前国内の主要な神社(126座の神霊)を巡拝することになっていた。

しかし、その巡拝の労を少なくする目的や、急ぎの祈願等のために、国司が巡拝する主要神社の神霊をひとつの場所に合祀する総社が建てられた。それが總社大神宮となったそうだ。

總社大神宮は、江戸時代以前は現在の越前市役所周辺に社を構えており、越前国の国府の正確な場所はまだ解明されていないが、市役所を含む、總社大神宮の周辺一帯が国府だったのではないかとされている。

糟谷さんは「総社は、国衙を形成する重要な神事施設で国司の着任儀式なども行なわれました」とも語る。とすれば、父とともに国府に入った紫式部は、總社大神宮を参拝したことだろう。

越前市では国府に関する発掘調査が進められているそうだが、国府に関する謎が解き明かされていけば、紫式部のこの地での暮らしぶりについても、研究が進んでいくのではないだろうか。

總社大神宮内の「越前国府」石碑
↑總社大神宮内の「越前国府」石碑

 

紫式部が暮らした地

紫式部公園の釣殿
↑紫式部公園の釣殿

總社大神宮から徒歩で20分ほどのところにある紫式部公園は、紫式部をしのんでつくられた、国内で唯一の寝殿造庭園だ。南門から入ると、右手に大きな釣殿が見える。総檜造りで再現したもので、実際に上がって庭園の景色を楽しむこともできる。

紫式部や当時の人々も、このような釣殿で、花見や納涼、月見など、季節の移り変わりを楽しんだのかもしれない。

釣殿から北側に歩いていくと、金色に輝く紫式部像にたどり着く。聡明な顔立ちの紫式部の目線をおうと、日野山が見える。ここから眺める日野山は、特に美しいと評判だそうだ。庭園の風景が池にも映し出され絶景だ。その景色にしばし癒される。

紫式部像付近から望んだ日野山
↑紫式部像付近から望んだ日野山

次に訪れたのは、紫式部公園に隣接する紫ゆかりの館。紫式部が越前で過ごした日々を、深く知ることができる資料館だ。館内の「紫式部の間」では、絵巻物風の映像が流されており、越前での紫式部の心模様をたどることができる。

紫ゆかりの館
↑館内では絵巻物風の映像が流れる

『源氏物語』に関する展示ではなく、紫式部の人生そのものに焦点を当てた展示がメインとなっており、越前以外の日々にも思いを馳せることができる。また館内には、紫式部一行の下向行列を、和紙人形で再現した展示もある。

紫ゆかりの館
↑紫ゆかりの館に展示されている、越前和紙でつくられた人形

副館長の長谷川作兵衛さんによると、実はこの人形、平成8年(1996)に実施された「紫式部千年祭」の際に制作されたものとのこと。25年以上前につくられたものだが、年月を感じさせない美しい和紙人形となっており、越前和紙の丈夫さと魅力を実感することとなった。

「武生は、古くから伝統工芸が盛んな地域でした。ものづくりの町としての面も知ってもらいたいですね」。長谷川さんのその言葉に、国府のあった町の重みを実感する。

ところで、紫式部が越前でどのような食事をしていたのかはわかっていない。だか、紫ゆかりの館では、文献や専門家のアドバイス、奈良、京都での古代食の再現事例などをもとに、当時の饗膳料理を再現している。思いのほか豪華な食事で、紫式部の越前での暮らしぶりに想像を膨らませることができた。 

紫式部和紙人形
↑紫式部和紙人形

 

企画展も多数開催!

和歌木簡
↑夕顔が詠んだ歌の一部が書かれた和歌木簡(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館蔵)

福井県内では、紫式部と『源氏物語』にまつわる企画展の開催が多数予定されている。

JR福井駅からバスで15分ほどの福井県文書館では、2月21日まで、「松平文庫にのこる紫式部の足跡」と題した松平文庫テーマ展を開催中だ。

紫式部の越前下向の足跡を資料からたどるとともに、松平文庫に残る『源氏物語』の影響を受けた文学作品が展示される。

主任の山本政一郎さんが武生周辺で撮影した、白山の写真にも目を引かれる。紫式部は白山を詠んだ歌をいくつか残している。そこで山本さんは、実際に武生から白山が見える位置を調べ、自ら足を運び、撮影したという。

紫式部ももしかしたらこの景色を見ていたかもしれないと思うと、興味深い。

JR一乗谷駅から徒歩3分の福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館では、3月9日から4月14日まで特別展「戦国大名朝倉氏 武威の煌めき」の第一弾として「源氏物語と戦国武将」と題した展覧会が開かれる。

戦国時代、朝倉氏は、公家の三条西実隆から『源氏物語』を入手しようとしていた。武力が重視された時代でも、文学作品を手にしていることはステータスであり、大名としての権威を誇示する効果があったのだ。

学芸員の宮永一美さんは、「知識は力であり、権力そのものだったのです。そして朝倉の武士にとっては、越前は紫式部ゆかりの地であるという誇りがあり、より強く『源氏物語』が求められたのでしょう」と語る。

残念ながら朝倉氏が所有していた『源氏物語』は現存していないが、同じ戦国時代に大名大内氏の求めで書写された重要文化財の『源氏物語〔大島本〕』などが今回、展示される。

また、朝倉館跡から発掘された、『源氏物語』の夕顔帖で夕顔が詠んだ歌の一部が書かれた和歌木簡なども鑑賞できる。朝倉氏の家臣たちがどのように古典作品に親しんでいたのか、理解を深められるだろう。

JR福井駅からバスで10分ほどの福井県立美術館では、3月16日から4月14日まで、『源氏物語』に関連する美術品を集めた「特集・源氏物語」展が開かれる。

江戸時代の絵師で、福井在住中に多くの美術作品を生み出した岩佐又兵衛の『源氏物語』に関する作品や、住吉派の『源氏物語画帖』など、華やかな作品が多数展示される。

学芸員の田中亜季さんによると、県立美術館で、『源氏物語』の関連作品をここまで大きな規模で展示するのは初めてとのことで、楽しみである。

大河ドラマ『光る君へ』の放映とともに、3月16日には、北陸新幹線の福井・敦賀開業も迫る。時速260キロメートルの新幹線で旅に出て、千年前を生きた女性の歩みに思いをめぐらせる。今度はそんな旅もいいかもしれない──そう思いつつ、福井を後にした。 

福井県MAP

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