2023年08月09日 公開
2023年08月09日 更新
開戦当日となった昭和16年12月8日、かねてからの計画のとおり、マニラ周辺の航空基地攻撃を準備していた在台湾の日本海軍航空部隊は、〇四〇〇(午前4時。昭和の海軍では時間制を24時間で表記、午前午後の文字は使わなかった)に出撃予定であった。ところが、〇三〇〇頃から濃霧に覆われて出撃不可能となり、発進が大きくずれ込む。これでは白昼堂々の強襲となり、相当の被害を覚悟しなければならない。
ようやく霧が晴れた一〇五五、第三航空隊は飛行隊長の横山大尉の直率により53機(台南空の9機を含む)が高雄基地を発進、高雄空と鹿屋空の一式陸攻計54機とともに、フィリピンのクラークフィールドとイバ飛行場を攻撃。敵戦闘機の迎撃は覚悟していたような頑強なものではなく、イバ上空で捕捉した10機を撃墜(うち3機不確実)したほか、地上銃撃により炎上、撃破22機の戦果を報じて、一七一〇に48機が高雄基地に帰着。三空2機、台南空1機が未帰還となった。
一方、台南海軍航空隊は、飛行隊長の新郷大尉直率で36機が一〇四五に台南基地を発進。高雄空の一式陸攻27機と第一航空隊の九六陸攻27機を直掩して、クラークフィールドとデルカルメン飛行場へ向かって少数の敵機と空戦、また地上銃撃を展開し、空中で13機を撃墜(うち4機不確実)、地上炎上、撃破25機を報じて4機が未帰還となった。
12月10日には、三空の零戦34機が三機の陸偵の誘導を受けてマニラ周辺の敵航空兵力撃滅へ出撃。今度は約50機の敵機と遭遇して大空中戦となり、撃墜46機(うち4機不確実)を報じた。だが、2機が自爆あるいは未帰還、帰途に発見したB17を深追いした横山大尉が燃料切れで台湾南端の海上に不時着して救助されたほか、2機が不時着して失われた(搭乗員は無事)。
デルカルメンへ向かった台南空は零戦22機で、10数機の敵機との空戦と地上銃撃により、撃墜5機(うち2機不確実)、地上炎上、撃破20機を報じて1機が未帰還、1機が海上に不時着した(搭乗員は無事)。
翌11日には台南空の零戦八機がヴイガン上空哨戒を、12日には29機でクラークフィールド周辺攻撃と、9機でオロンガポ攻撃を、13日には18機でマニラ周辺攻撃を実施。
三空は12日に25機でマニラ周辺敵航空兵力撃滅を実施。緒戦で痛手を負った米軍には抵抗兵力はなく、遭遇した8機全機を撃墜したのが本作戦最後の戦闘となった。
こうして大きな抵抗を受けずに有利な戦闘を展開できたのは、開戦当日に霧に覆われて発進を延期したことが、ハワイ空襲により警戒を厳重にしていた在フィリピン米軍への肩透かしとなったことが大きい(燃料補給などで地上に降りていた状態で撃破できた)。
また、米軍側が台湾への空襲を行なわなかったのは、大型機はともかくとして戦闘機は周辺に伏在している空母から発進したものだろうと、いもしない日本の空母の捜索のために兵力を割いたためで、ここにも零戦の長大な航続力が戦局に影響を与えた事実があった。
陸上部隊の進撃とともに海軍航空部隊も足早にフィリピンを南進し、昭和17年(1942)1月中旬になると台南空はタラカンヘ、三空はセレベス島メナド(現スラウェシ島マナド)へ前進、蘭印の資源地帯の攻略へ乗り出す。
この間、同方面には続々と敵航空機が補充されているとの情報が寄せられていたが、その実数がつかめないことが不気味であった。
1月15日、三空は黒澤丈夫大尉率いる零戦18機でアンボン攻撃の陸攻を直掩、2機と交戦してこれを撃墜し全機が帰着した。
1月末になると、台南空はバリクパパンへ、三空はケンダリーへ進出して東部ジャワ航空撃滅戦を展開し、マオスパテやマラン、スラバヤ、バンジェルマシン、バリなどへ進攻。
台南空では、2月18日に八機がスラバヤ周辺で約20機の敵戦闘機と空戦して撃墜9機(うち不確実3機)を報じ、19日には零戦23機でスラバヤに進攻してP40など30機と交戦、撃墜17機(うち不確実3機)を報じたほか、難攻不落のB17も数機を撃墜したのが特記される。
三空では、2月3日に零戦27機でスラバヤへ進攻、大小敵機と交戦して撃墜41機(うち不確実5機)を報じ、2月9日には零戦10機がバリへ進攻して撃墜11機(うち不確実2機)を報じたのが大きな戦いであった。
昭和17年1月12日から3月3日までを区切りとする蘭印攻略作戦における台南空の戦功は、撃墜65機、炎上63機、撃破18機と、三空の戦功は撃墜86機、炎上65機、撃破25機と記録されている(海軍功績調査部の集計)。
フィリピンや蘭印で遭遇したアメリカ、オランダの戦闘機はP40、P35、バッファローなどと記録されている。
零戦というと優れた運動性を駆使した格闘戦での空戦を想像されるかもしれないが、これは最後の手段であった。多くの場合は相手より早く敵を発見し、双方の態勢に応じて編隊を誘導、高度差を得て敵に気づかれずに後方から一斉に襲いかかって勝敗を決するのがセオリーだ。
敵味方双方が同時に相手を発見した場合には高度の取り合いとなるのだが、軽い零戦は中高度(当時一般的に空戦が行なわれていた高度3,000〜5,000メートル付近)での上昇力に優れていて、敵戦闘機より容易に高度をとることができ、有利な態勢で空戦を展開することができた。
さて、零戦がこうした八面六臂の活躍をすることができたのは、優れた航続力によるところが大きかったわけだが(搭乗員がいかに優秀で、機体の性能を100%以上引き出せたとしても、航続距離だけは物理的な限界がある)、それは逆に「零戦は遠くまで飛ばして作戦任務を遂行できる」という刷り込みを海軍上層部にさせることになった。
搭乗員たちの心意気にあぐらをかいた海軍は、やがてガダルカナル航空戦において彼らに550浬進出という重荷を背負わせることとなる。
更新:12月10日 00:05