2023年08月09日 公開
2023年08月09日 更新
日米戦争においては、真珠湾攻撃と同時に南方作戦が始まり、日本軍は快進撃を見せる。
そしてそれを可能にしたのが、零戦の航続力であった。
零戦隊がみせた八面六臂の活躍とは──。
※本稿は、『歴史街道』2023年8月号の特集1「零戦の光と影―‶戦略戦闘機″の真実」から一部抜粋・編集したものです。
太平洋戦争開戦前後の日本海軍の航空隊は、隊名に地名を冠した常設航空隊と、隊名を番号で表わす特設航空隊とのふたつに分類される。
太平洋戦争開戦劈頭に、陸上攻撃機隊とともに台湾からフィリピン、ルソン島のアメリカ軍航空基地を長駆空襲した台南海軍航空隊は常設航空隊、第三航空隊(隊名には海軍の二文字が入らない)は特設航空隊である。
このうち、第三航空隊はもともと昭和16年(1941)4月1日付けで編成された陸上攻撃機の部隊で、編成当初から国籍マークを消して敵地偵察を実施していたが、9月1日付けで艦上戦闘機六十機、陸上偵察機八機を定数とする部隊に改編され、飛行長には海軍戦闘機隊の古豪、柴田武雄少佐が就任した(司令は編成当初からの亀井凱夫大佐で変更なし)。
ここへ飛行隊長として着任したのが、横山保大尉である。海軍兵学校第519期出身の横山大尉は、水上艦艇や潜水艦での勤務を経て念願の飛行学生となり、戦闘機操縦員としての空戦技術を身につけると、日華事変の勃発とともに九六式艦上戦闘機を駆って第十三航空隊と空母「蒼龍」艦戦隊で中国大陸の空戦を経験。
その後、昭和15年(1940)6月28日付けで臨時横須賀海軍航空隊附となって、間もなく零式艦上戦闘機として制式制定(7月24日付け)される十二試艦上戦闘機の実用実験に携わった人物だ。わずか1カ月半の期間で1個分隊九機と補用機、搭乗員を携えて漢口基地の第十二航空隊へ進出し、華々しい零戦のデビューを飾った(ただし、初空戦の指揮官は進藤三郎大尉)。
十二試艦上戦闘機/零戦の開発に当初からテストパイロットとして携わっていた横須賀海軍航空隊の下川万兵衛大尉(横山大尉の海軍兵学校一期先輩にあたる。昭和16年4月に零戦のテスト飛行中に殉職)を除けば、零戦を最もよく知る士官搭乗員が、この横山大尉であると言えた。
一方の台南海軍航空隊は、『大空のサムライ』の著書で知られる坂井三郎が一等飛行兵曹として所属していた部隊で、司令に斎藤正久大佐、副長兼飛行長に小園安名中佐、飛行隊長には新郷英城大尉(横山大尉と海兵同期)という陣容。兵力のほどは第三航空隊と同様であった。
新しい航空部隊が編成されたときに最も重要視されるのは、編隊行動力の錬成である。これは、たとえ一人ひとりが一騎当千の強者であっても、統制が取れていなければ部隊としての全力発揮が覚束ないからだ。
第三航空隊も飛行隊長の横山大尉を筆頭に黒澤丈夫大尉、向井三郎大尉、稲野菊一大尉、蓮尾隆一大尉、宮野善次郎大尉ら分隊長たちが空戦訓練と編隊戦闘に邁進。昭和16年10月には台湾の高雄基地へ前進することとなった。
時あたかも日米交渉の決裂が予想されていた頃であり、いざ開戦となった際には、冒頭で述べたとおり第三航空隊と台南海軍航空隊はともに陸上攻撃機隊によるフィリピン、マニラ周辺の米航空基地の空襲を援護し、フィリピン攻略を空から支援することを主任務とされていた。
ここで問題となったのは、台湾からルソン島の主要なアメリカ航空基地までの距離が500浬(約926キロメートル)もあること。そして開戦当日は真珠湾攻撃も予定されているため、そのあとに決行される台湾からのフィリピン空襲は、敵が待ち構える中へ跳び込む強襲になることだった。また、敵が台湾へ空襲を仕掛けてくる懸念もあった。
このうち、距離の問題については第三航空戦隊の空母「瑞鳳」と第四航空戦隊の空母「龍驤」、特設空母「春日丸(のちの空母「大鷹」)」の三隻を用い、第三航空隊と台南海軍航空隊の零戦をこれらに搭載して使用する案が考えられていた。
しかし、この内示を受けた横山大尉は、「自分ら一部のものは母艦勤務の経験があるが、ほとんどのものは未経験であって、今から着艦訓練(発艦はさほど難しくないが、空母への着艦は相当な高等技術となる)をするのは無理では?」と亀井司令、柴田飛行長に意見具申し、代わって航続距離を延伸する訓練の実施を提案。中国大陸で片道420浬の長距離進攻の経験があった横山大尉は、すぐさまフィリピン往復の千浬に、全力運転(戦闘運転)30分を加えた航続力を得るための燃費向上訓練に取りかかった。
第三航空隊を含む当時の零戦隊が使用していた零戦は二一型(に・いち・がたと読む。ただし、この頃の呼称は零式一号艦上戦闘機二型)と呼ばれる型式の機体で、中国大陸でデビューした一一型の翼端を折り畳めるようにし、着艦用のフックなど、艦上で運用するための装備を追加したタイプだった。両者は基本的に同一の飛行性能と考えて良い。
本機のカタログ上の航続力は、増槽(胴体下に搭載する落下式の燃料タンクのこと)を使用した場合に巡航速度で1,808浬(約3,350キロ)となっていたから、これを実現することができれば無理からぬ数字である。ただ、テスト用に整備された飛行機に有能なテストパイロットが搭乗して得られた数値と、実際に実施部隊で運用されている飛行機に技倆にばらつきのある搭乗員が乗っての数値には大きな乖離がある。
そこで、第三航空隊の全搭乗員に10時間飛行訓練の実施が命じられ、ほどなくしてその全員が、1時間の燃料消費量を70リットルに抑えることに成功(最高記録は67リットルだった)。これにより、空母を使用せずともフィリピン往復の航空作戦が可能なことを実証した(同じ訓練は台南海軍航空隊でも実施されたことが、前出の坂井三郎氏の手記で裏付けられている)。
これにより空母は不要となり、「龍驤」は南部フィリピン攻略に転用され、「春日丸」は前線への飛行機運搬任務に、「瑞鳳」は内海西部にあって本土の守りを固めるという副産物を得ることとなった。
なお、開戦直前に台南海軍航空隊、第三航空隊から1個分隊ずつを抽出し、第二十二航空戦隊附属戦闘機隊が編成され、マレー方面の作戦に従事することとなった。
ここに、単発単座戦闘機による未曾有の長距離進攻の準備が整ったことになる。
更新:11月21日 00:05