2021年09月29日 公開
2022年03月18日 更新
大正13年(1924)8月21日、天気図が初めて国民新聞に掲載され、大正14年(1925)3月22日には、東京放送局(現在のNHK)で、日本で初めてのラジオによる天気予報が放送された。新聞は予報の発表から人々の目に届くまでタイムラグが生じるが、ラジオならタイムリーに情報が伝わる。ラジオ放送は、天気予報が国民の間に根付くきっかけとなった。
昭和28年(1953)2月1日には、テレビによる天気予報が放送され、昭和29年(1954)には、東京で自動応答式電話の天気予報サービスが受けられるようになった。昭和31年(1956)7月1日には、気象台が気象庁に昇格している。
天気予報の現場を大きく変えたのは、数値予報の導入である。数値予報とは、観測データをもとに、コンピュータを使って未来の大気状態の変化を予測することである。
昭和34年(1959)3月、気象庁に当時の世界最先端の大型電子計算機(コンピュータ)が設置され、六月から数値予報の業務化が開始された。当初、数値予報の予測精度は充分とはいえなかったようだが、次第に精度も上がり、現在では予報業務の中核を担っている。
その後も、日本の天気予報は発展を遂げていく。
昭和49年(1974)11月1日には、地域気象観測システム(アメダス)の運用が開始される。昭和52年(1977)7月14日には、日本で初めての静止気象衛星「ひまわり」がアメリカのケネディ宇宙センターから打ち上げられた。ひまわりの登場により、地球にいながらにして宇宙から雲の動きや様子が観察できるようになり、予報の精度はさらに増した。
そして現在、全国の気象台では、24時間体制で気象状況を見張り、観測データや数値予報に基づいて、天気予報や防災気象情報などを発表している。数値予報の予測精度は進歩し続けているが、最終的な決断を下すのは、現代の「日和見」である予報官だという。
天気予報は、的中して当たり前と思われがちである。外れれば、お叱りを受けることもあるだろう。台風や大雨などの災害時に判断を間違えば、多くの人々の生命を危険にさらすことにもなりかねない。
現代の日和見たちはそんな大きな役目を担いながらも、空や雲や風を読み、ほんの少し先の未来を、我々に届けてくれている。
更新:11月22日 00:05