2019年11月15日 公開
2023年10月04日 更新
皇紀1409年=天平勝宝元年(749年)7月2日、先帝・聖武天皇の譲位により皇太子の阿倍内親王が32歳で即位された。この日、元号を天平勝宝に改元する。
聖武天皇の第一皇子・基王は生後1年足らず、2歳で夭折され、第二皇子の安積親王も5年前に17歳で薨去された。従って聖武天皇の皇子としての後嗣がおられなくなり、阿倍内親王が即位される。天皇は史上6人目の女性天皇で、のちに重祚され称徳天皇として再び即位されるが、天武系の最後の天皇となられた。
11月25日、大嘗祭を催行された。
皇紀1414年=天平勝宝6年(754年)7月19日、太皇太后(宮子)が薨去される。
皇紀1416年=天平勝宝8年5月2日、聖武上皇が崩御される。崩御にあたって聖武上皇は道祖王を孝謙天皇の皇太子に立てることを遺詔された。
ここで遺詔に従って道祖王が孝謙天皇の皇太子となられる。道祖王は新田部親王(天武天皇の第七皇子)の王子で、天武天皇の孫王である。
聖武天皇が譲位され阿倍内親王が即位(孝謙天皇)されると、藤原仲麻呂は大納言に昇進し、また後に光明皇后のために設けられた紫微中台(皇后宮職)の令(長官)となる。光明皇后と娘・孝謙天皇の信任を背景に、仲麻呂は政治と軍事の両方を掌握して左大臣・橘諸兄の権勢を凌ぎ、執政は光明皇后と仲麻呂の独裁体制となる。
皇紀1417年=天平勝宝9年(757年)3月29日、道祖王は服喪中に不貞な行動がありこれが不敬と問題視され、孝謙天皇の勅命で皇太子を廃される。先帝・聖武天皇の遺詔により立太子された道祖王がわずか1年足らずで廃されたのである。先帝の遺詔を反故にするほどのことであったのかどうか極めて疑わしい。
翌皇紀1418年4月4日、天皇は道祖王を廃してから、どの王を立てて後嗣とすべきかをご下問になった。大伴宿禰古麻呂は池田王(舎人親王の王子)を推挙する。これに対して、藤原仲麻呂は「臣下の者を一番よく知っているのは君主(天皇)、子のことを最もよく知っているのは父、従って私は天皇の選ばれる人に従う」と答える。天皇は「大炊王はまだ壮年に達していないが、過誤悪行のあることを聞かない。この王を立てようと思う」と詔される。
ここで天武天皇の第三皇子である舎人親王の王子の大炊王(淳仁天皇)が藤原仲麻呂の推挙もあって立太子される。大炊王は仲麻呂の早世した長男・真従(まより)の未亡人である粟田諸姉を妃とし、田村第(仲麻呂邸)に住しておられた。
5月20日、藤原仲麻呂が紫微内相(紫微中台長官)に任じられる。
強まる藤原仲麻呂の権勢に危機感を抱いた橘奈良麻呂(前年失脚した左大臣・橘諸兄の息子)や大伴古麻呂らは、孝謙天皇を廃して新帝を擁立することを協議する。
孝謙天皇は女性天皇で、皇子はおられないので、皇統の危機が起きるのは目に見えていた。将来の皇位継承を考えるのは朝廷官僚の首脳としては当然のことであり、義務でもあった。ところが仲麻呂らはこれを謀反と見なして橘奈良麻呂らの追い落としにかかる。
この年7月4日、孝謙上皇を廃し塩焼王(新田部親王の王子、天武天皇の孫王)、安宿王(あすかべおう、長屋王の王子、天武天皇の曾孫王)、黄文王(きぶみおう、長屋王の王子)、道祖王(新田部親王の王子、天武天皇の孫王)の四王子(皇位継承資格者)のいずれかに即位を願おうと橘奈良麻呂らは協議していたが、これが謀反と見なされた。
黄文王、道祖王が捕縛され、厳しい拷問を受け、薨去された。そして関係者の多くも獄死したり、配流になるなどした。黄文王は左大臣・長屋王の子で母は藤原不比等の娘である。孝謙天皇が先帝・聖武天皇の遺詔により立太子された道祖王を廃されたが、女帝であり後嗣がないので、皇位継承問題が間近に迫っていると考え、奈良麻呂らは孝謙天皇を廃して、しかるべき皇統の人に即位願おうとした事件であった。そこで孝謙天皇と藤原仲麻呂は、皇位継承資格のある諸王やその関係者を徹底して粛清した。皇位継承に関しての歴史上、極めて重大でかつ残虐な事件であった。
孝謙天皇の意を受けてのことではあろうが、藤原仲麻呂は長屋王に繫がる皇親勢力を徹底的に抹殺した。後に仲麻呂は乱(藤原仲麻呂の乱)を起こし誅殺されることになる。
皇紀1418年=天平宝字2年(758年)8月1日、在位9年(9年30日で皇統譜には10年とある)、孝謙天皇は「譲位の宣命」を発せられ、41歳で皇太子・大炊王(淳仁天皇)に譲位され上皇(太上天皇)となられる。
更新:11月23日 00:05