2019年10月23日 公開
2019年10月23日 更新
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1343年=天武12年(683年)、草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の第一王子・軽皇子として誕生される。皇統譜には天武11年誕生とある。母は草壁皇子の妃・阿閇皇女である。この母・阿閇皇女は天智天皇の皇女で、持統天皇の異母妹である。後に第43代元明天皇として即位されることになる。
即位が予定されていた草壁皇子が持統3年(689年)に薨去され、称制しておられた持統天皇(軽皇子の祖母)が正式に即位された。
皇紀1356年=持統10年(696年)7月10日、天武天皇の第一皇子・高市皇子が薨去(43歳)される。高市皇子は草壁皇子の異母兄で、壬申の乱が起きると近江の大津京を脱出して父(大海人皇子)に合流し、美濃国不破で軍事の全権を委ねられ活躍される。そして持統天皇の即位後は太政大臣に就かれた。母・尼子娘(筑紫宗像郡の豪族・胸形徳善の娘)の身分は低いが皇位継承の有力候補であられた。
皇紀1357年=持統11年(697年)2月16日、先帝・持統天皇の孫・軽皇子(文武天皇)が15歳で立太子される。
8月1日、前年に高市皇子が薨去され、持統天皇は7年の在位、称制期間を含めると11年の在位で、ご自身の孫王である皇太子・軽皇子(文武天皇)に譲位された。
譲位を受けたこの月の17日、軽皇子が「即位の宣命」を発せられ、文武天皇として即位される。
立太子されてから半年後のことで、この年を文武元年とする。
15歳という、これまでには先例のない若さでの即位であり、祖母の持統天皇が初めて太上天皇(皇位を譲った天皇)となって後見役となられた。ただし院政を敷かれたわけではない。
持統天皇が数おられる天武天皇の皇子たちを退け、自らの孫である軽皇子(文武天皇)を皇太子にしようとされた際、前述の通り、故・弘文天皇の第一皇子・葛野王(27歳)がそれに与し、「日本では古より直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもと」と、皇位の直系継承を主張される。
従って、文武天皇の皇位継承に関しては、先帝の持統天皇が決定されたが、この決定には壬申の乱で崩御された弘文天皇の皇子・葛野王が大きな役割を果たされたことになる。
8月20日、中臣鎌足(藤原鎌足)の次男である藤原不比等の長女・宮子(39歳)を入内させる。まだこの当時は、皇后や妃は皇族や豪族出身でなければならなかったから、皇后とせず「皇夫人(こうぶにん)」としている。
皇夫人・宮子は首皇子(おびとのみこ、聖武天皇)を出産されたあと、心的障害(重度の鬱病)に陥り、父・不比等は宮子を自宅に幽閉し、その後も長く皇子に会われることはなかった。
またこの日、紀朝臣の娘・紀竈門娘(かまどのいらつめ)と石川朝臣の娘・刀子娘(とねのいらつめ)を妃とされる。不比等には文武天皇の皇子・首皇子に皇位を継承させるという思惑があったものと推察される。
11月23日、大嘗祭を催行される。
皇紀1358年=文武2年(698年)8月19日、藤原不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、不比等の従兄弟たちは鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされる。このため不比等がその後の藤原氏の家祖となる(第二三八詔、「不比等・〈中臣〉意美麿呂等に関して下し給える詔」)。
この詔によって、以後藤原姓を名乗れるのは不比等の末裔のみとなった。つまり、全ての藤原氏の祖は不比等だということである。
皇紀1361年=文武天皇5年3月21日、元号を大宝と定める。
皇紀1362年=大宝2年(702年)12月22日、持統太上天皇が崩御される。ここで文武天皇はご即位から五年、二十歳にして後見役をなくされることとなった。
皇紀1363年=大宝3年1月、後ろ盾となって天皇を補佐しておられた祖母の持統太上天皇が崩御されたあと、天武天皇の皇子で伯父の忍壁皇子が知太政官事に任命される。知太政官事は令外官の一つで、太政官の長官として政務を総攬する官職である。天皇がまだ若いし、後見役の持統太上天皇が崩御されたので、天皇を補佐するために任命された。
皇紀1367年=慶雲4年(707年)6月15日、文武天皇が在位10年(皇統譜では11年とある)、25歳と若くして崩御される。
あまりにも若くして崩御されたため、後の皇位継承に混乱を来し、再び女性天皇(男系)が誕生されることとなった。文武天皇の皇子である首皇子はまだこの時7歳で、他に皇子はおられなかった。
更新:11月21日 00:05