2018年05月19日 公開
2019年04月24日 更新
慶長4年5月19日(1599年7月11日)、土佐の長宗我部元親が没しました。戦国の四国の覇者として知られ、ここ数年、ゲーム等の影響で人気が急上昇しています。
「貴殿が四国平均など、茶釜の蓋で水桶に蓋するようなもの」
天正5年(1577)頃のこと、雲辺寺住持の言葉に、39歳の長宗我部元親は笑みを浮かべて応えました。
「ほどなく四国一円を、七つ方喰(かたばみ)の旗で埋めてご覧に入れましょう」
わが兵法と剽悍無比の一領具足をもってすれば、四国はおろか天下を目指すも夢ではない…そんな大志を元親は抱いていたのです。
天文8年(1539)、元親は長宗我部氏歴代の居城・岡豊城に生まれました。長宗我部氏は秦氏の流れで、一説に秦の始皇帝の末裔ともいわれます。父親の国親も有能な武将でしたが、戦国期の土佐には長宗我部氏の他に国司大名の一条氏を別格として香宗我部氏、安芸氏、本山氏、山田氏、吉良氏といった有力国人領主がひしめき、土佐一国を制するのも容易ではないといわれていました。しかし国親は山田氏を滅ぼし、香宗我部氏を一門とします。
永禄3年(1560)、22歳の元親は本山氏を攻めた長浜の戦いで初陣しました。遅い初陣ですが、それまで元親は色白で大人しいために家臣から「姫若子」と嘲笑されていたといいます。しかし実際は『孫子』などを熟読し、兵法に通じていました。その真価は初陣で発揮され、見事な采配と奮戦で勝利を呼び込みます。
直後に父・国親が病没すると、家督を継いだ元親は父が編成した一領具足を駆使し、永禄11年(1568)には宿敵・本山氏を軍門に降しました。ちなみに一領具足とは、普段は農業に携わっていますが、一旦事あれば鍬を刀槍に代えて合戦に望む半士半農の者たちです。
さらに周囲を席捲した元親は天正3年(1575)、37歳にして土佐を統一、「土佐の出来人」と呼ばれました。同年、中央で勢力を伸ばす織田信長と抜かりなく誼(よしみ)を通じると、時をおかずに阿波へ進攻。白地城を四国制圧の拠点としました。冒頭の雲辺寺で「四国統一」を宣言するのは、この頃です。
天正7年(1579)には讃岐の香川信景、羽床資載らを降して、讃岐もほぼ手中に。ところが翌年、元親の四国統一を認めていたはずの織田信長が突然、伊予と讃岐を渡すよう要求してきます。大坂の石山本願寺を降した信長の、方針転換でした。裏では阿波の三好氏の工作もありました。
激怒した元親は「四国は自分の手で切り取ったものであり、信長から与えられたものではない」として断交します。信長もこれを黙過せず、息子の神戸信孝と丹羽長秀を将とする討伐軍を編成、軍がまさに渡海しようとした時に、本能寺の変が起こりました。実は長宗我部氏の信長への取次役を長年明智光秀が務めており、本能寺の原因の一つに長宗我部問題があるといわれる所以です。
危機を脱した元親は、同年に阿波を平定。羽柴秀吉が派遣した仙石秀久も撃退し、天正12年(1584)には讃岐、翌年に伊予を平定して、ついに四国統一を成し遂げました。しかし、喜びは束の間、同年、秀吉の四国追討軍11万が三方面から迫り、さしもの元親も抗し得ず、一月余の戦いで降伏。元親は土佐一国のみを安堵されました。
天正16年(1588)、秀吉が聚楽第で宴を開いた折、元親は秀吉から「かつて四国を望んだのか、天下を望んだのか」と問われて、「天下を望みました」と応えました。秀吉が「その器量で天下を望むことはできまい」と言うと、「いいえ。たまたま生まれてきた時代が悪かったため、天下人になり損ねたまでです」と平然とうそぶいたといいます。まさに土佐の「いごっそう」というべきでしょうか。
更新:11月21日 00:05