2018年03月24日 公開
2019年02月27日 更新
明暦3年3月24日(1657年5月7日)、鍋島勝茂が没しました。鍋島直茂の息子で、佐賀藩初代藩主として知られます。
鍋島勝茂は天正8年(1580)、肥前の戦国大名・龍造寺隆信の重臣・鍋島直茂の長男に生まれました。幼名、伊勢松。通称、伊平太。 天正12年(1584)、沖田畷の戦いで、龍造寺隆信は島津勢に討たれ、鍋島直茂は辛くも戦場を脱しました。
討死した隆信はすでに家督を息子の政家に譲っていたため、政家が名実ともに龍造寺家当主となりますが、病弱で武将としての才にも乏しかったといわれます。そのため国政は義理の叔父にあたる鍋島直茂が実質的に掌握しました。
天正15年(1587)に豊臣秀吉が九州を平定すると、政家は肥前32万石を安堵されます。しかし3年後の天正18年(1590)、秀吉は病弱を理由に政家を隠居させて、家督は政家の息子・高房に継がせ、さらに高房は幼少なので、国政は重臣筆頭の鍋島直茂が行なうよう命じます。
その前年の天正17年(1589)、直茂が城を蓮池城から佐賀城に移す際、蓮池城は龍造寺隆信の次男・江上家種が城主となりました。この家種の養子として、直茂の長男・勝茂が迎えられることになります。時に勝茂、10歳。
家種は父・隆信譲りの立派な体格で、武勇に秀でていましたが、文禄2年(1593)、文禄の役に従軍して釜山で討死しました。養父の死により、14歳の勝茂は鍋島家に戻ります。ちなみに朝鮮出兵では、龍造寺軍を鍋島直茂が率いていました。
慶長2年(1597)からの慶長の役では、18歳の勝茂も父とともに出陣、蔚山(ウルサン)の戦いで武功をあげたといいます。慶長5年(1600)の関ケ原合戦の折は、勝茂は最初西軍に与して伏見城攻め、伊勢安濃津城攻めなどを行ないました。しかし父・直茂の命令で西軍から離れ、関ケ原本戦には参加せず九州に帰還。東軍として立花宗茂の柳川城などを攻撃する一方、井伊直政や黒田長政の斡旋で徳川家康に許され、本領安堵にこぎつけます。
慶長12年(1607)、龍造寺家の当主・高房が鍋島氏に実権を奪われたことに絶望して憤死すると(一説に自刃)、その後を追うように隠居していた政家も急死します。幕府は龍造寺の家督をどうするのかを一門に問い、勝茂こそが当主に相応しいと一門が認めたため、家督を継承するかたちで、勝茂が佐賀藩35万石の初代藩主となりました。
勝茂の父・直茂は龍造寺隆信とは義兄弟でもあり、鍋島も龍造寺の一門の内であったことが、家督の禅譲が比較的スムーズに進んだ最大の理由であったのでしょう。しかし、直茂が没する際、耳に腫瘍ができ、激痛の中で悶死したことから、これは高房の怨霊のしわざではないかとの噂が流れます。この「鍋島騒動」とよばれる事件もあり、後年、勝茂もまた龍造寺家を簒奪した悪役のイメージで知られることになります。
勝茂はその後、大坂の陣、島原の乱にも参陣。島原の乱では家臣らが抜け駆けの軍律違反をしたため、幕府から蟄居を命ぜられることもありました。もっとも抜け駆けを命じたのは、勝茂本人であったともいいます。
明暦3年、勝茂没。享年78。家督は嫡孫の光茂が継ぎますが、その光茂に小姓として仕えていたのが、『葉隠』を著わす山本常朝です。
更新:12月10日 00:05