2017年12月24日 公開
2018年12月03日 更新
月山富田城跡(島根県安来市)
永禄3年12月24日(1561年1月9日)、尼子晴久が没しました。中国を制した尼子経久の嫡孫にあたり、出雲をはじめ隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆8ヵ国の守護職を兼任した武将です。
晴久は永正11年(1514)、尼子経久の嫡男・政久の次男に生まれました。幼名、三郎四郎。長男は夭折したため、晴久が経久の嫡孫ということになります。名将経久の家督は本来、晴久の父・政久が継ぐはずでした。ところが政久は永正15年(1518)の出雲・阿用城攻めで討死。晴久がまだ5歳の時のことでした。
この頃、尼子氏は重臣・亀井秀綱らが傘下の毛利氏の家督相続問題に介入、毛利元就の異母弟・相合(あいおう)元綱を支持します。このため家督を継いだ元就は反尼子へと踏み切り、やがて大内氏に転属。尼子氏は安芸や備後への影響力を失い、毛利元就を敵に回すことになりました。尼子氏の衰退はこの辺から始まることになります。
天文6年(1537)、経久の隠居に伴って、24歳の晴久が尼子家当主となります。当初は詮久と称しました。翌天文7年には大内氏が押さえていた石見銀山を奪い、因幡を平定すると播磨まで勢力を伸ばして、播磨・備前・美作の守護・赤松晴政を破りました。さらに天文8年(1539)には龍野城を攻略、赤松晴政が別所氏の三木城に逃げ込むと、三木城を囲み、別所氏が尼子に味方したため、赤松晴政は堺へと逃亡します。
立て続けの戦勝に気をよくしたのか、晴久は天文9年(1540)、安芸の有力国人である毛利元就を攻めます。祖父の経久はこの遠征に反対したといいますが、毛利の3000に対し、晴久の尼子軍は3万。毛利は吉田郡山城に籠城しますが、物の数ではないはずでした。 しかし吉田郡山城は落ちず、さらに来援した大内軍の陶隆房の前に晴久は大敗を喫し、出雲へと逃げ帰ることになります。
その直後、天文10年(1541)11月に祖父の経久は他界しました。この敗北で尼子氏は安芸への影響力を失い、傘下の国人の多数が大内氏に転属する事態となります。そして天文11年(1542)、今度は大内義隆自ら大軍を率い、晴久の居城・月山富田城に攻め寄せました(第一次月山富田城の戦い)。しかし尼子軍の徹底抗戦により戦いは長期化し、疲弊した大内軍が撤退を始めたところを尼子軍が追撃して、大内勢に大打撃を与えました。この敗北で大内義隆はすっかり戦意を失い、また毛利元就も大損害を出す結果となります。
その後、勢力挽回に務めた晴久は天文21年(1552)、前年に大内義隆が家臣の陶隆房(晴賢)に討たれたこともあって、将軍足利義輝より、山陰山陽8ヵ国(出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆)の守護及び幕府相伴衆に任ぜられました。また同年、従五位下修理大夫の官位も得ています。
しかしこのことが、尼子氏内部に微妙な軋轢を生みました。 尼子氏の軍事力を支える有力な一族に「新宮党」がいます。党を率いる新宮国久は経久の次男で、晴久の叔父にあたり、また国久の娘を晴久が室としたため義父でもありました。しかし8ヵ国の守護就任を機に、尼子氏の家臣団統制の強化を図る晴久に、出雲国内では尼子宗家を凌ぐ力を持つ新宮党は不満を抱きます。
この不和に目をつけたのが、毛利元就でした。元就は国久が謀叛を企んでいるという流言を広めると、国久が毛利に内通している手紙を偽造して、晴久の手に渡るよう仕組みました。かねてより新宮党の横暴を苦々しく思っていた晴久は手紙を信じ、天文23年(1554)、室の死を契機に、新宮国久らを討ち、新宮党を壊滅させます。毛利元就の謀略にまんまと乗せられ、貴重な戦力を失ったのです。
そんな晴久に、毛利を倒す千載一遇の好機が訪れます。弘治元年(1555)、毛利が陶晴賢に決戦を挑んだ厳島の戦いでした。この時、合戦に全力を注ぐ元就は吉田郡山城に800の守備兵しか置いておらず、晴久の3万の兵をもってすれば、吉田郡山城を落とし、さらに動揺する毛利勢を背後から襲うこともできたでしょう。しかし、当時晴久は備前浦上氏の天神山城を攻めており、宿敵を討つ好機を逸するのです。
弘治3年(1557)に大内義長が自害し、大内領の大半が毛利の版図となると、尼子は守勢に回らざるを得なくなります。しかし晴久存命中は、さしもの毛利も石見銀山を奪うことはできませんでした。当時でも銀山からは年に2500貫を産出しており、米に換算すれば50万石に相当します。出雲の鉄の輸出と銀の産出が、尼子氏の経済を支えていたのです。
永禄3年、晴久は月山富田城内で急死しました。享年47。家督は嫡男の義久が継ぎました。月山富田城が毛利元就によって攻略される6年前のことです。
更新:11月22日 00:05