2017年04月01日 公開
2019年03月27日 更新
昭和20年(1945)4月1日、阿波丸事件が起こりました。阿波丸が、アメリカ軍の潜水艦に沈められた悲劇として知られます。
すでに太平洋戦争開始から4年に及び、日本側の兵士も国民も物資不足に苦しんでいましたが、それは連合国側の捕虜や抑留者も同様でした。この状況にアメリカ及び連合国は、救援の手を差し伸べるべく国際赤十字に働きかけます。
そしてアメリカ政府は、東京駐在のスイス代表団を通じて、日本政府に救援物資の輸送を依頼しました。日本政府はこれを承知する代わりに、輸送に使用する日本の船舶の安全航行の保証を求めます。
当時、アメリカは日本に対し「無制限潜水艦戦」という非戦闘員の生命の安全も無視した、国際法に反する戦法をとっていましたから、日本側の要求は当然過ぎるものでした。
アメリカ側は直ちに「アメリカ及び連合国は、当該船舶に対し、絶対に攻撃しない、臨検を行なわない、また何らの干渉も実施しない」ことを確約します。 そこで日本政府は、昭和19年(1944)12月に白山丸をナホトカ沖に派遣し、そこで連合国側の救援物資2500tを積み込み、途中、羅津(ラジン)で600tを陸揚げして、神戸に運びます。さらに神戸から275tを星丸が上海、青島(チンタオ)に運びました。 そして残りの約1600tを東南アジア方面に輸送することとし、そのための船舶が日本郵船の貨客船「阿波丸」だったのです。
制海権、制空権を失っていた日本にとって、航行の安全を保証された阿波丸は、東南アジアにいる日本人が、内地に帰る最後の手段でもありました。 阿波丸は船体を白一色に塗装し、両舷舷側と煙突の両側に、緑地に大きな白十字のマークが描かれました。夜間にはそれらをスポットライトで照らし、遠方からも識別できるようにしてあります。
さらにハッチカバー2ヵ所にも白十字が大きく描かれ、上空からも視認できました。通例の病院船の白地に赤十字とは異なる、特殊なマークです。 救援物資を積んだ阿波丸が門司を出港したのが昭和20年(1945)2月17日。台湾の高雄、香港、サイゴン(現在のホーチミン)、シンガポール、ジャカルタ、スラバヤなどを回り、シンガポールに戻ったのは3月24日のことでした。
そして、日本に戻るべくシンガポールを出港したのは3月28日の朝です。戦況から考えて、阿波丸は日本に帰る最後のチャンスと乗船希望者が殺到し、乗客は公務員、軍人、民間人あわせて2000余名であったといわれます。うち50人は女性と子供でした。 当時、東シナ海から南シナ海にかけて、常時40隻ほどのアメリカ軍潜水艦が潜んでおり、阿波丸も2隻の潜水艦が捕捉しています。しかしどちらの潜水艦も、白十字のマークを確認して阿波丸であると判断し、攻撃を行ないませんでした。
しかし4月1日、台湾海峡に入る前、船内で女の赤ちゃんが誕生したことを報せる連絡を最後に、阿波丸からの通信は途絶えました。4月1日22時頃、台湾海峡において阿波丸は、アメリカ潜水艦クイーンフィッシュによる雷撃を受け、3本の魚雷が命中し、轟沈したのです。 現場海域でクイーンフィッシュが救助したのは、僅かに一人。他の2000余名は海の藻屑となったのでした。死亡者数はあのタイタニックを上回り、真珠湾攻撃でのアメリカ軍の死亡者数に匹敵するものです。
クイーンフィッシュが攻撃したのは、人為的なミスであるといわれます。すなわち阿波丸について報せる最初の通信文を艦長が見ておらず、そのために阿波丸の航路と通過時間について報せた次の通信文の意味がわからず、レーダーで捕捉した阿波丸を日本の駆逐艦と思い込んだのでした。また霧のために船体の白十字が視認できなかったことも、悲劇につながったのでしょう。
日本側は直ちに戦時国際法違反であるとアメリカ側に抗議し、損害賠償を求めますが、アメリカ側は戦争後に交渉したいと賠償問題を延期します。 さらに戦後、賠償請求の交渉を行なおうとする日本政府にマッカーサーが圧力をかけ、結局、政府は賠償権放棄を決定。代わりにアメリカは有償食糧援助の金額を大幅に棒引きしました。
昭和25年(1950)、日本政府は死亡者一人あたり7万円の見舞金を遺族に支給しています。 なんとも後味の悪い事件ですね。
更新:11月22日 00:05