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若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(後編)

2016年03月04日 公開
2023年10月04日 更新

植松三十里(作家)

凌風丸絵図。佐賀藩が造った、日本初の実用的な蒸気船。慶応元年(1865)に完成した(佐嘉神社蔵)

 

近代化に挑んだ佐賀の男たち、そして…

 長崎海軍伝習所の1期生に、中牟田倉之助という藩士がいた。彼は佐野と一緒に卒業して国元に帰ってから、また長崎に戻り、2期生としても伝習を続けた。

 いったん帰った際に、三重津の造船所計画に加わり、その後、オランダ人から情報を得つつ、国元の佐野と連携したのだろう。中牟田ら2期生は、長崎でスループという小型帆船も実作している。

 一方、幕府は、江戸築地の軍艦操練所が軌道に乗ると、長崎海軍伝習所の閉鎖を決定。安政6年4月には、幕臣たちが江戸に引き上げ、諸藩も伝習生を国元に戻した。

 オランダ人教官団は帰国船の出航を待って、なお5カ月ほど長崎に滞在した。この時、佐賀藩士たちは最後まで伝習を受け、できる限り知識の吸収に務めた。長崎海軍伝習所の恩恵を、最大に活かしたのは、佐賀藩だったといえる。

 とうとう三重津に造船所が建設され、佐野や中牟田たちの手で、蒸気機関の製造が始まった。ただしボイラーからの蒸気漏れを防ぐのが難しく、7年もの歳月を費やしたが、慶応元年(1865)には、日本で初めて充分な出力を持つ蒸気船──すなわち、凌風丸が完成。

 また千代田形という幕府軍艦のためにも、蒸気機関を製作した。江戸湾の台場用に鉄製大砲を造ったのと同じく、幕府の軍備の西洋化は、佐賀藩が先導する形だった。

 三重津は藩の近代的海軍の拠点となり、幕末までにオランダ製の輸入軍艦や、帆走船も合わせて、13隻の艦隊が組織された。

 

佐賀藩なくして為し得なかった維新

 幕末の佐賀藩が、それほどまでに輝かしい業績を持ちながらも、現在、あまり語られることがないのは、なぜなのだろうか。

 少し年月が戻るが、文久年間に入ると、各地で尊王攘夷の動きが激化した。それまで直正は、国元の統治と技術改革に専念していたが、大砲製造や蒸気船造船などの高い軍事技術を持つがゆえに、朝廷、幕府、両方から味方につくように求められた。

 そこで文久元年(1861)、長男で16歳になった直大に家督を譲り、騒乱の京都や江戸に出た。藩主として下手な行動に出ると、御家断絶などの危機に見舞われかねない。だからこそ隠居して、身軽な立場になったのだ。ただし将軍臣下の大名家という立場をわきまえ、あくまでも幕府寄りだった。

 やがて慶応4年(1868)、最後の将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに負けて江戸に戻り、幕府崩壊は確実になった。

 佐賀藩が官軍への味方を明らかにしたのは、鳥羽伏見の戦いの、ほぼ1カ月後だ。幕府が朝廷に抵抗せず、大きな内乱が避けられたのを見極めてから、官軍に加わったのだ。

 官軍側としては「薩長土」の後に、肥前佐賀を意味する「肥」を続けて「薩長土肥」にしたかった。日本最高峰の軍事技術が幕府方にある限り、倒幕は不可能だったのだ。

 そのため佐賀藩が早く加担しなかったことに苛立ち、直正を日和見と評した。藩主は現代の大企業の社長のようなものであり、状況を見極めてから、進退を決めるのは当然のことなのだが。そんな評判が影響して、幕末における佐賀藩の技術改革までも、顧みられなくなったのかもしれない。それでも直正の人材育成は身を結び、大隈重信、副島種臣など、そうそうたる人物が明治の世に力を発揮した。
 

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